1. Finest Fit Guide – 鳥海修 / OSAMU TORINOUMI


「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット?色合わせ?それとも素材感?どれもきっと間違いじゃない
けれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきり
と映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェア
がよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回は書体設計士の鳥海修さんの場合。

Photograph_Tetsuo Kashiwada
Text & Edit_Rui Konno

「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット?色合わせ?それとも素材感?どれもきっと間違いじゃないけれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきりと映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェアがよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回は書体設計士の鳥海修さんの場合。

Photograph_Tetsuo Kashiwada
Text & Edit_Rui Konno

“「ヒラギノで、時代小説が
組めるのか?」って”

“「ヒラギノで、時代小説が組めるのか?」って”





―安曇野、やっぱりいいところですね。鳥海さんが「お昼ご飯はみんなでおそばにしましょう」と
言ってくださっていたのに取材が月曜日になってしまって。お店がやっていないんじゃと、少し心配
していたんです。


結構この辺は水曜日とか、木曜日休みのところが多いと思いますよ。僕がここに引っ越してきたころはコロナ禍
だったこともあって、休んでいるお店も多かったけど。

―その前は東京にお住まいだったんですか?

うん、調布の深大寺っていうところに。そこには10年ぐらいいたのかな。

―この安曇野というエリアには、なにかしらご縁があったんですか?

いや、何もなかったです。コロナが一番のきっかけではあるけど、私がそのころはまだ字游工房という会社の社長
をやってたんですよ。だけど、会社がこのままじゃ立ち行かないなということで、モリサワっていう、今は日本で
一番大きなタイプデザインの会社に字游工房の面倒を見てもらったんですよ。そうすると私の立場っていうのはた
だのデザイナーになるんです。要するに、経営責任を持たなくても良くなった。そこでコロナ禍になって、テレワ
ークが可能になって、普通は定年になってもいいぐらいの年だったから、こんなに人がいっぱいいる東京にいなく
てもいいじゃん、って。それで新しく住む場所を探し始めたんです。


―安曇野、やっぱりいいところですね。鳥海さんが「お昼ご飯はみんなでおそばにしましょう」と言ってくださっていたのに取材が月曜日になってしまって。お店がやっていないんじゃと、少し心配していたんです。

結構この辺は水曜日とか、木曜日休みのところが多いと思いますよ。僕がここに引っ越してきたころはコロナ禍だったこともあって、休んでいるお店も多かったけど。

―その前は東京にお住まいだったんですか?

うん、調布の深大寺っていうところに。そこには10年ぐらいいたのかな。

―この安曇野というエリアには、なにかしらご縁があったんですか?

いや、何もなかったです。コロナが一番のきっかけではあるけど、私がそのころはまだ字游工房という会社の社長をやってたんですよ。だけど、会社がこのままじゃ立ち行かないなということで、モリサワっていう、今は日本で一番大きなタイプデザインの会社に字游工房の面倒を見てもらったんですよ。そうすると私の立場っていうのはただのデザイナーになるんです。要するに、経営責任を持たなくても良くなった。そこでコロナ禍になって、テレワークが可能になって、普通は定年になってもいいぐらいの年だったから、こんなに人がいっぱいいる東京にいなくてもいいじゃん、って。それで新しく住む場所を探し始めたんです。




―そうだったんですね。

それでもモリサワの東京本社にいつ呼ばれてもすぐに行けるようなところで探して。「住まいを変えます」って
ほとんど相談もしないで、「もう決めました」っていう事後報告。東京に住んでるころ、京都の大学に教えに行
ったりしていて、それには車で行ってたんです。東名で行くこともあるし、中央道を通って行くこともあるんで
すけど、私のイメージでは、この諏訪のあたりはその中間みたいな場所なんです。

―たしかに、東京から車で来るには程よい距離でした。自然も多くて気持ちいいですし。

そうそう。うちから燕岳の燕山荘が見えるんだけど、そうなると登らないわけにはいかないじゃないですか(笑)。
それで3年くらい前に登ったんです。頂上に上がる瞬間、向こう側に3000メートル級の山々がずらっと見えて、あ
れは本当にきれいだったなぁ。

―鳥海さんはご出身が山形だと聞いていたので、もしかしたらこういう山と平野のバランスに
既視感があったのかなと、勝手に思っていました。


それはないんです。山形でも内陸と、僕が育った庄内は全然違っていて。うちの兄が山形から遊びに来てこの景色
を見て、「ずいぶんごちゃごちゃしてるなぁ」って言ってましたし(笑)。山形の地元は背後に単独峰の鳥海山が
あって、その前に庄内平野がひろがっていて、さらにその向こうは日本海で、真っ平だから。

―なるほど。字游工房とモリサワは元々関わりがあったんですか?

いや、ないです。どちらかと言えば、私たちはモリサワのライバル会社の写研というところで働いていたので。そ
こを辞めた3人で立ち上げたのが字游工房。それがちょうどコンピューターで文字を打ち出せるような仕組みができ
た、DTPの元年(1989年)でした。写研には10年いたんですけど、いい先輩もいて、同僚も同じ世代が40人くらい
いたんです。急に大きくなった会社なので、当時の私たちと同じような若い世代が多くて。

―そのころ写研が急成長したのはなぜだったんですか?

写植(写真植字)ですね。写植っていうのは写研とモリサワと一緒につくったとされています。モリサワが機械を
つくって、特許申請したのが当時の写研の社長だったそうです。当時は西のモリサワ、東の写研っていう感じで。
写研の写植は戦時中には海図なんかをつくるのにも使われていた、みたいな話もあるんですが、戦争で金属活字が
なくなっちゃうんですよ。金属は全部武器に転用されて、工場が焼けて、活字も溶けちゃって。

―活字の環境が物理的に失われてしまったんですね…。

その象徴的な例に大修館の『大漢和辞典』という辞書があるんです。諸橋轍次(もろはしてつじ)という人がつくっ
たもので、分厚いやつが全13巻あって。それはつい数十年前までは東洋一の漢和辞典とされていたんですが、戦時中
に1巻目を活字でつくったんだけど、戦争で活字がなくなっちゃって。だけど、その原稿はちゃんと保管されていて、
残ってた。それで、なんとか全13巻を揃えたいということで、大修館はどこかで活字をつくれないかと、焼け野原の
中、探し回るんですよね。そこに、大塚に写真植字機研究所(のちの写研)という会社があって、写植という方法を
使うと、金属活字よりもはるかに早く、安くつくれるらしい、と。それでお願いに行くんです。


―そうだったんですね。

それでもモリサワの東京本社にいつ呼ばれてもすぐに行けるようなところで探して。「住まいを変えます」ってほとんど相談もしないで、「もう決めました」っていう事後報告。東京に住んでるころ、京都の大学に教えに行ったりしていて、それには車で行ってたんです。東名で行くこともあるし、中央道を通って行くこともあるんですけど、私のイメージでは、この諏訪のあたりはその中間みたいな場所なんです。

―たしかに、東京から車で来るには程よい距離でした。自然も多くて気持ちいいですし。

そうそう。うちから燕岳の燕山荘が見えるんだけど、そうなると登らないわけにはいかないじゃないですか(笑)。それで3年くらい前に登ったんです。頂上に上がる瞬間、向こう側に3000メートル級の山々がずらっと見えて、あれは本当にきれいだったなぁ。

―鳥海さんはご出身が山形だと聞いていたので、もしかしたらこういう山と平野のバランスに既視感があったのかなと、勝手に思っていました。

それはないんです。山形でも内陸と、僕が育った庄内は全然違っていて。うちの兄が山形から遊びに来てこの景色を見て、「ずいぶんごちゃごちゃしてるなぁ」って言ってましたし(笑)。山形の地元は背後に単独峰の鳥海山があって、その前に庄内平野がひろがっていて、さらにその向こうは日本海で、真っ平だから。

―なるほど。字游工房とモリサワは元々関わりがあったんですか?

いや、ないです。どちらかと言えば、私たちはモリサワのライバル会社の写研というところで働いていたので。そこを辞めた3人で立ち上げたのが字游工房。それがちょうどコンピューターで文字を打ち出せるような仕組みができた、DTPの元年(1989年)でした。写研には10年いたんですけど、いい先輩もいて、同僚も同じ世代が40人くらいいたんです。急に大きくなった会社なので、当時の私たちと同じような若い世代が多くて。

―そのころ写研が急成長したのはなぜだったんですか?

写植(写真植字)ですね。写植っていうのは写研とモリサワと一緒につくったとされています。モリサワが機械をつくって、特許申請したのが当時の写研の社長だったそうです。当時は西のモリサワ、東の写研っていう感じで。写研の写植は戦時中には海図なんかをつくるのにも使われていた、みたいな話もあるんですが、戦争で金属活字がなくなっちゃうんですよ。金属は全部武器に転用されて、工場が焼けて、活字も溶けちゃって。

―活字の環境が物理的に失われてしまったんですね…。

その象徴的な例に大修館の『大漢和辞典』という辞書があるんです。諸橋轍次(もろはしてつじ)という人がつくったもので、分厚いやつが全13巻あって。それはつい数十年前までは東洋一の漢和辞典とされていたんですが、戦時中に1巻目を活字でつくったんだけど、戦争で活字がなくなっちゃって。だけど、その原稿はちゃんと保管されていて、残ってた。それで、なんとか全13巻を揃えたいということで、大修館はどこかで活字をつくれないかと、焼け野原の中、探し回るんですよね。そこに、大塚に写真植字機研究所(のちの写研)という会社があって、写植という方法を使うと、金属活字よりもはるかに早く、安くつくれるらしい、と。それでお願いに行くんです。



―…激動の昭和のドラマを見た気分です。

写植って、紙に1文字ずつレタリングした文字を、写真で小さくしてそれらを集めて1枚のネガフィルムにして、それを
ガラス板で挟んで、金属の枠をつけたのが文字盤になるんです。その裏面から光を当てて、レンズを通して印画紙に文
字を印字するんです。さらにレンズの倍率を変えることで文字の大きさも変えられるわけです。それが便利だった。
ただ、写研の社長は大修館の話を最初は断るんですよ。他の仕事ができなくなるからと。でも、3回くらい断って、
最終的には受けた。そして結局、収録される漢字を5万字つくったそうです。ほぼひとりで。

―どれほどの苦労だったのか、ちょっと想像を絶しますね…! その方が石井茂吉さんでしたっけ?

そうです。漢字5万字をひとりでっていうのはすごいですよ。それで、石井茂吉さんは菊池寛賞をもらって、“写植
はすごい”と名声も上がって。文字の写研っていうことでわっと広まっていったみたいです。おそらく優秀なデザイ
ナーもいたし、取締役も優秀な人たちで、外部から連れてきた人たちも優秀で、本当にどんどん発展していくんで
すよ。私がいた10年間も基本給が毎年上がっていったし、ボーナスも1回も落ちたことはなかったんですよ。最後の
年は、夏が6ヶ月分、冬が6ヶ月分でした。

―会社の勢いがわかる数字ですね…! それでも退社をされたのはなぜだったんですか?

経営陣の中で内紛が起きて、そのあおりを受けた形ですね。

―確か、鳥海さんが入社されるかなり前に写研の社長は変わられてるんですよね?

はい。石井裕子さんっていう方に交代していました。さっきの石井茂吉さんは創業者なんだけど、その娘さんです。
それで、ある日突然、作業部屋から同僚の半分が席を立っていなくなって、どうしたんだろう…? と思ってたら、
2、3時間後に戻ってくるんですよ。それで、「どこ行ってたの?」って聞いても、「いや、言えない」って。私が慕っ
てた、のちに字游工房の社長になってくれる鈴木勉さんっていう先輩がいたんですが、その鈴木さんにはそのころ
からよく飲みに誘ってもらっていて。そこで内情を聞かされました。組織が大きく変わることで、書体づくりの環
境も悪いほうへ大きく変わる予感がして、特に私が興味がある本文書体はつくることが難しくなりそうだと思い、
これは嫌だなと思ったんです。それで、「鈴木さん、この会社辞めよう」と。それで、字游工房っていうのを3人で
つくったんです。

―鳥海さんと、鈴木さんと、後のおひとりというのは?

同期だったKさん。彼は経済学部を出ていて、大学時代にはレタリング部に入っていたらしく、営業志望だったん
です。だけど写研に入ったら「文字デザインをやれ」と言われたそうで。大学でレタリング同好会に入っていたの
が影響したのだと思うけど、それよりも外に出かけて新規開拓するのは苦手だったと思うし、会社がそういうこと
を見抜いていたのかもしれないね。で、自分たちでやるとなったときに、鈴木さんが「お前と俺じゃ経理とかでき
ないから、誰かお金に明るいヤツがいないと」と言うので、Kさんに合流しててもらって。最終的にはKさんがいた
から字游工房は保ってたんですよ。税理士さんとしっかりタッグを組んで、きっちり経理をやってくれたおかげで
私たちは無借金だったので。

―…激動の昭和のドラマを見た気分です。

写植って、紙に1文字ずつレタリングした文字を、写真で小さくしてそれらを集めて1枚のネガフィルムにして、それをガラス板で挟んで、金属の枠をつけたのが文字盤になるんです。その裏面から光を当てて、レンズを通して印画紙に文字を印字するんです。さらにレンズの倍率を変えることで文字の大きさも変えられるわけです。それが便利だった。ただ、写研の社長は大修館の話を最初は断るんですよ。他の仕事ができなくなるからと。でも、3回くらい断って、最終的には受けた。そして結局、収録される漢字を5万字つくったそうです。ほぼひとりで。

―どれほどの苦労だったのか、ちょっと想像を絶しますね…! その方が石井茂吉さんでしたっけ?

そうです。漢字5万字をひとりでっていうのはすごいですよ。それで、石井茂吉さんは菊池寛賞をもらって、“写植はすごい”と名声も上がって。文字の写研っていうことでわっと広まっていったみたいです。おそらく優秀なデザイナーもいたし、取締役も優秀な人たちで、外部から連れてきた人たちも優秀で、本当にどんどん発展していくんですよ。私がいた10年間も基本給が毎年上がっていったし、ボーナスも1回も落ちたことはなかったんですよ。最後の年は、夏が6ヶ月分、冬が6ヶ月分でした。

―会社の勢いがわかる数字ですね…! それでも退社をされたのはなぜだったんですか?

経営陣の中で内紛が起きて、そのあおりを受けた形ですね。

―確か、鳥海さんが入社されるかなり前に写研の社長は変わられてるんですよね?

はい。石井裕子さんっていう方に交代していました。さっきの石井茂吉さんは創業者なんだけど、その娘さんです。それで、ある日突然、作業部屋から同僚の半分が席を立っていなくなって、どうしたんだろう…? と思ってたら、2、3時間後に戻ってくるんですよ。それで、「どこ行ってたの?」って聞いても、「いや、言えない」って。私が慕ってた、のちに字游工房の社長になってくれる鈴木勉さんっていう先輩がいたんですが、その鈴木さんにはそのころからよく飲みに誘ってもらっていて。そこで内情を聞かされました。組織が大きく変わることで、書体づくりの環境も悪いほうへ大きく変わる予感がして、特に私が興味がある本文書体はつくることが難しくなりそうだと思い、これは嫌だなと思ったんです。それで、「鈴木さん、この会社辞めよう」と。それで、字游工房っていうのを3人でつくったんです。

―鳥海さんと、鈴木さんと、後のおひとりというのは?

同期だったKさん。彼は経済学部を出ていて、大学時代にはレタリング部に入っていたらしく、営業志望だったんです。だけど写研に入ったら「文字デザインをやれ」と言われたそうで。大学でレタリング同好会に入っていたのが影響したのだと思うけど、それよりも外に出かけて新規開拓するのは苦手だったと思うし、会社がそういうことを見抜いていたのかもしれないね。で、自分たちでやるとなったときに、鈴木さんが「お前と俺じゃ経理とかできないから、誰かお金に明るいヤツがいないと」と言うので、Kさんに合流しててもらって。最終的にはKさんがいたから字游工房は保ってたんですよ。税理士さんとしっかりタッグを組んで、きっちり経理をやってくれたおかげで私たちは無借金だったので。



―字游工房を立ち上げて、すぐに仕事は来たんですか?

うん。同じように写研を辞めた人で、キヤノンに行った人がいて。そこから、会社をつくったご祝儀みたいな感じ
で「仮名書体を何種類かつくってくれ」と。ありがたかったですね。そうしたら、私よりもはるかに早く辞めた別
の人が京都のスクリーンという会社にいて、そこから「自社の機械に搭載するための新しい書体をつくってくれ」
っていう依頼が来て。それが10年続いて、ヒラギノっていう書体になっていくんだけど。

―ヒラギノは現代の日本語フォントのスタンダードになっていますよね。

それがMacとかにも入っていって、みんな「すごいね! 儲かるね」的なことを言うんですけど、それは自分たちが
つくったけど、書体の権利はクライアントのものなんです。だから、それによって字游工房が裕福になることはま
ったくなくて。

―スティーブ・ジョブズもヒラギノを製品発表で絶賛していたというのは華々しい話題でしたし、意外です。

MacのOSⅩの発表のときですね。それで、最初から思ってはいたんだけど、やっぱり自分たちの書体を持たないと
ダメだよね、って。その後、ヒラギノがひと段落したぐらいで(ブックデザイナー、装丁家の)平野甲賀さんに誘
われて飲んでるときに「例えばヒラギノで、時代小説(の文字)が組めるのか?」って言われたんです。私は、
「向いてないかもしれない」って。そうしたら「DTPになってから使える書体が急に減って、本当に小説を組むと
かそういったときに困るんだ。だから君ら、つくれよ」って言われて。それで私と鈴木さんで「じゃあ、つくるか」
と始めたのが游明朝体。(小説家の)藤沢周平を組むっていうコンセプトで始めるんだけど、要するに普通の小説を
組める書体をつくろうっていうこと。ああいう活字の読み物だとか、縦組みの本みたいなものを。


―字游工房を立ち上げて、すぐに仕事は来たんですか?

うん。同じように写研を辞めた人で、キヤノンに行った人がいて。そこから、会社をつくったご祝儀みたいな感じで「仮名書体を何種類かつくってくれ」と。ありがたかったですね。そうしたら、私よりもはるかに早く辞めた別の人が京都のスクリーンという会社にいて、そこから「自社の機械に搭載するための新しい書体をつくってくれ」っていう依頼が来て。それが10年続いて、ヒラギノっていう書体になっていくんだけど。

―ヒラギノは現代の日本語フォントのスタンダードになっていますよね。

それがMacとかにも入っていって、みんな「すごいね! 儲かるね」的なことを言うんですけど、それは自分たちがつくったけど、書体の権利はクライアントのものなんです。だから、それによって字游工房が裕福になることはまったくなくて。

―スティーブ・ジョブズもヒラギノを製品発表で絶賛していたというのは華々しい話題でしたし、意外です。

MacのOSⅩの発表のときですね。それで、最初から思ってはいたんだけど、やっぱり自分たちの書体を持たないとダメだよね、って。その後、ヒラギノがひと段落したぐらいで(ブックデザイナー、装丁家の)平野甲賀さんに誘われて飲んでるときに「例えばヒラギノで、時代小説(の文字)が組めるのか?」って言われたんです。私は、「向いてないかもしれない」って。そうしたら「DTPになってから使える書体が急に減って、本当に小説を組むとかそういったときに困るんだ。だから君ら、つくれよ」って言われて。それで私と鈴木さんで「じゃあ、つくるか」と始めたのが游明朝体。(小説家の)藤沢周平を組むっていうコンセプトで始めるんだけど、要するに普通の小説を組める書体をつくろうっていうこと。ああいう活字の読み物だとか、縦組みの本みたいなものを。


“活字っていうのは誰がつくったか
わからないほうがいい”

“活字っていうのは誰がつくったかわからないほうがいい”




―DTPで、過去の活字をそのままデジタルに入れ直そうとかっていう動きはなかったんですか?

それがね、実は難しいんです。例えば金属活字の原字(紙にレタリングされた原図)って、細いんですよ。その活字
を鉛でつくって、インクをつけて紙に押し付けるのが活版印刷です。そうするとマージナルゾーンって言って、ちょっと
はみ出すインクが出てくる。それで太さが出るんです。ところが活字をデジタル化しようとすると、元々の原字がデ
ジタル化されオフセット印刷で刷られる。そうすると、細いんです。これじゃダメだ、全然使えないと。そういう揺
籃期でした。写植からDTPになるときも一緒で、写植の原字をそのままアウトライン化してデジタル化したんじゃダ
メなんです。

―今は機械でデジタル化できるようになったんでしょうか?

いや、できないんです。幸い私たちは既存の金属活字の、例えば凸版印刷が使っていた明朝であったり、ゴシックで
あったり、大日本印刷で使っていた活字だったりをデジタル用に改刻(つくり直す)するっていうプロジェクトをやっ
ていたので、金属の原字からどういう風に加工したら使えるようになるのかっていうのは、ある程度ノウハウがあるん
ですよ。数年前から、写植発明100周年の記念イベントとして写研の写植書体をデジタル化しようとなって、かつての
ライバル会社のモリサワと組んで現在、改刻プロジェクトが進行中です。私は両方に所属した経験があるので、監修者
になって「こういう風に加工して…」っていうようなことをやってデジタル化を進めています。

―鳥海さんはつくづく特殊な経歴ですね。游シリーズでいうと、游ゴシックは日本語フォントの中でも
すごく洗練されたデザインとの相性がいいなと感じていたんですが、知らずに横組みで使っていました…。


游ゴシックも、どちらかと言えば縦に組んで欲しいという思いでつくってるんですよ。でも、今のシステムって全部、
横じゃないですか。だから、例えばヒラギノを游ゴシックに変えるとスカスカなんですよ。特に短い文章だと空間が
気になってくる。もうちょっと詰めたいな…って。長い文章だとそんなに気にならないんだけど。だけど、ヒラギノ
っていうのは偶然なのかわからないけど、1行、25文字くらいの中でピッタリっていう感じなんです。

―ジョブズはそれを客観的に判断できた人なんでしょうね。

うん、そうなんだろうね。私たちが総合書体というか、漢字もカナもちゃんとつくったのはヒラギノが初めてなんで
す。写研に本蘭明朝体っていうのがあるんですけど、ヒラギノはそのオマージュなんです。ただそのコンセプトは文
字物…小説とか長い文章を組むものではなく、カタログやパンフレット、チラシなどに使うことを目的にしたんです。
つまり、カラー印刷で、イラストや写真などと一緒に、比較的短めの文章での使用を念頭に置き、さらに横組みのこ
とも重視しました。

―同じように字游工房から生まれた書体でも、目指したところはまったく違うんですね。

游明朝体は、とにかく普通の“読める書体”を目指したものでした。だから、まずは縦組み。私はそれを、金属活字へ
の回帰っていうふうに思ったんです。写植が出たころ、「やっぱり読むときの書体は金属活字がいいよね」っていう
のが、本好きにとっては当たり前だったんです。「写植は弱いよね」って言われるんですよ。じゃあ写研の写植が何
に使われたかっていうと、雑誌なんです。あのころ、『ブルータス』とか『アンアン』、『ノンノ』とか、そういう
カラー雑誌がどんどん出てきて、写研の写植の書体を使ってた。だけど文字物はまだ弱く見えるからと、写研は本蘭
明朝体っていう書体をつくるんです。だけど、私は本文用で本当に読みやすいのは金属活字なんじゃないの? と思っ
ていて。秀英体という、新潮社の文庫なんかに使われている本文書体があるんだけど、そういうものを意識してつく
ったほうがいいなと考えてできたのが游明朝体なんですよね。

―正直、本を読むときに、そこまで書体を意識していませんでした。お恥ずかしい話ですが。

でも、活字っていうのは誰がつくったかわからないほうがいいんですよ。情報を文字で伝えようとするときに、この
書体は誰々がつくったっていうのは、邪魔なんです。読む人にとってはどうでもいいことで、読む人がそうやって気
持ちよく読めるための書体をつくるデザインがあるっていうのが、この世界に入るそもそものきっかけでしたから。


―DTPで、過去の活字をそのままデジタルに入れ直そうとかっていう動きはなかったんですか?

それがね、実は難しいんです。例えば金属活字の原字(紙にレタリングされた原図)って、細いんですよ。その活字を鉛でつくって、インクをつけて紙に押し付けるのが活版印刷です。そうするとマージナルゾーンって言って、ちょっとはみ出すインクが出てくる。それで太さが出るんです。ところが活字をデジタル化しようとすると、元々の原字がデジタル化されオフセット印刷で刷られる。そうすると、細いんです。これじゃダメだ、全然使えないと。そういう揺籃期でした。写植からDTPになるときも一緒で、写植の原字をそのままアウトライン化してデジタル化したんじゃダメなんです。

―今は機械でデジタル化できるようになったんでしょうか?

いや、できないんです。幸い私たちは既存の金属活字の、例えば凸版印刷が使っていた明朝であったり、ゴシックであったり、大日本印刷で使っていた活字だったりをデジタル用に改刻(つくり直す)するっていうプロジェクトをやっていたので、金属の原字からどういう風に加工したら使えるようになるのかっていうのは、ある程度ノウハウがあるんですよ。数年前から、写植発明100周年の記念イベントとして写研の写植書体をデジタル化しようとなって、かつてのライバル会社のモリサワと組んで現在、改刻プロジェクトが進行中です。私は両方に所属した経験があるので、監修者になって「こういう風に加工して…」っていうようなことをやってデジタル化を進めています。

―鳥海さんはつくづく特殊な経歴ですね。游シリーズでいうと、游ゴシックは日本語フォントの中でもすごく洗練されたデザインとの相性がいいなと感じていたんですが、知らずに横組みで使っていました…。

游ゴシックも、どちらかと言えば縦に組んで欲しいという思いでつくってるんですよ。でも、今のシステムって全部、横じゃないですか。だから、例えばヒラギノを游ゴシックに変えるとスカスカなんですよ。特に短い文章だと空間が気になってくる。もうちょっと詰めたいな…って。長い文章だとそんなに気にならないんだけど。だけど、ヒラギノっていうのは偶然なのかわからないけど、1行、25文字くらいの中でピッタリっていう感じなんです。

―ジョブズはそれを客観的に判断できた人なんでしょうね。

うん、そうなんだろうね。私たちが総合書体というか、漢字もカナもちゃんとつくったのはヒラギノが初めてなんです。写研に本蘭明朝体っていうのがあるんですけど、ヒラギノはそのオマージュなんです。ただそのコンセプトは文字物…小説とか長い文章を組むものではなく、カタログやパンフレット、チラシなどに使うことを目的にしたんです。つまり、カラー印刷で、イラストや写真などと一緒に、比較的短めの文章での使用を念頭に置き、さらに横組みのことも重視しました。

―同じように字游工房から生まれた書体でも、目指したところはまったく違うんですね。

游明朝体は、とにかく普通の“読める書体”を目指したものでした。だから、まずは縦組み。私はそれを、金属活字への回帰っていうふうに思ったんです。写植が出たころ、「やっぱり読むときの書体は金属活字がいいよね」っていうのが、本好きにとっては当たり前だったんです。「写植は弱いよね」って言われるんですよ。じゃあ写研の写植が何に使われたかっていうと、雑誌なんです。あのころ、『ブルータス』とか『アンアン』、『ノンノ』とか、そういうカラー雑誌がどんどん出てきて、写研の写植の書体を使ってた。だけど文字物はまだ弱く見えるからと、写研は本蘭明朝体っていう書体をつくるんです。だけど、私は本文用で本当に読みやすいのは金属活字なんじゃないの? と思っていて。秀英体という、新潮社の文庫なんかに使われている本文書体があるんだけど、そういうものを意識してつくったほうがいいなと考えてできたのが游明朝体なんですよね。

―正直、本を読むときに、そこまで書体を意識していませんでした。お恥ずかしい話ですが。

でも、活字っていうのは誰がつくったかわからないほうがいいんですよ。情報を文字で伝えようとするときに、この書体は誰々がつくったっていうのは、邪魔なんです。読む人にとってはどうでもいいことで、読む人がそうやって気持ちよく読めるための書体をつくるデザインがあるっていうのが、この世界に入るそもそものきっかけでしたから。



―自分の個性やアイデアを誇示することに関心はなかったんですか?

確かにグラフィックデザイナーっていうのは、普通は人と違うことをするとか、目立ったことをするとか、そういう
ものを誇らしく思ったり、「俺がやったんだぜ!」みたいなところがあったりしますよね。でも、私は山形の田舎で
育ったせいなのか、才能がないせいか、そういうものを誇るっていうのが合わないなって思ってました。

―鳥海さんが書体デザイナーというお仕事を認識されたのはいつごろだったんでしょう?

大学で、“文字デザイン”っていう授業があったんですよ。その先生が篠原榮太先生っていう、『渡る世間は鬼ばかり』
とか、『3年B組金八先生』とかのテレビタイトルを描いてた人だったんです。その人が私たち学生を連れて、文字に
関わる仕事をしている人のところに見学に連れていってくれて。そのひとつに毎日新聞社があったんですけど、そこで
衝撃を受けたんです。活字をつくるっていう仕事があるんだ…ってことに、本当に驚いて。自分の今まで読んでる本
とかの文字が、まさか人がつくってるなんて思いもしなかったから。

―考えてみれば絶対に誰かつくっている人がいるはずなのに、不思議とそういう発想に至らないですよね。

一緒に字游工房を立ち上げた鈴木さんは、天才だったんですよ。写研が1970年から石井賞タイプフェイスコンテスト
っていうのを開いたんですけど、その第2回、第3回と連続して鈴木さんは1位を獲ってるんです。当時のそのインパク
トっていうのは結構すごくて、鈴木さんは週刊誌に写真入りで載ったり、日本タイポグラフィ協会っていうところか
ら講演をしてくれと頼まれて登壇したりして。でも、それを知った当時の写研の部長が、ものすごい怒り方で鈴木さん
に怒鳴ってたんです。「勝手にそんなところに出てるんじゃない!」って。それがなぜかというと、要するに文字の
デザインはすごく匿名性が高いもので、一部の人間が目立つことを嫌ったんでしょうね。でも、一方で活字の歴史に
詳しい方がいて、その人が言うには外国の書体は誰が何年に、どういうコンセプトでつくったかっていうものがちゃん
と辞書みたいにまとめられていると。ところが日本の活字って、誰がつくったかが全然わからない。「それは文字の研
究者たちにとっては非常にまずい」、「つくった側はもっと発信すべきだ」って言ってくれて。そこから私は、初めて
人前で話すようになりました。

―意識の転換点だったと。

そうです。鈴木さんはよく「(日本語書体は1書体あたり約2万字もあって、複数の人たちでつくらなければならないので)
書体はひとりでつくるもんじゃない」って言ってたんですけど、だから私も“鳥海がつくった書体”ではなく、常に“鳥海が
関わった書体”っていう意識でいます。

―それがMacのような世界的なプラットフォームで採用されたときは、
みなさんで喜びを共有できたんじゃないですか?


そのときは、鈴木さんはもう亡くなってしまってたんです。’98年、游明朝体の漢字を描いてる途中で亡くなったから、ジョ
ブズの発表は見られなかった。さっき、字游工房はあんまり大変なことにはならなかったと言いましたけど、このときは残
された私は大変でしたね。


―自分の個性やアイデアを誇示することに関心はなかったんですか?

確かにグラフィックデザイナーっていうのは、普通は人と違うことをするとか、目立ったことをするとか、そういうものを誇らしく思ったり、「俺がやったんだぜ!」みたいなところがあったりしますよね。でも、私は山形の田舎で育ったせいなのか、才能がないせいか、そういうものを誇るっていうのが合わないなって思ってました。

―鳥海さんが書体デザイナーというお仕事を認識されたのはいつごろだったんでしょう?

大学で、“文字デザイン”っていう授業があったんですよ。その先生が篠原榮太先生っていう、『渡る世間は鬼ばかり』とか、『3年B組金八先生』とかのテレビタイトルを描いてた人だったんです。その人が私たち学生を連れて、文字に関わる仕事をしている人のところに見学に連れていってくれて。そのひとつに毎日新聞社があったんですけど、そこで衝撃を受けたんです。活字をつくるっていう仕事があるんだ…ってことに、本当に驚いて。自分の今まで読んでる本とかの文字が、まさか人がつくってるなんて思いもしなかったから。

―考えてみれば絶対に誰かつくっている人がいるはずなのに、不思議とそういう発想に至らないですよね。

一緒に字游工房を立ち上げた鈴木さんは、天才だったんですよ。写研が1970年から石井賞タイプフェイスコンテストっていうのを開いたんですけど、その第2回、第3回と連続して鈴木さんは1位を獲ってるんです。当時のそのインパクトっていうのは結構すごくて、鈴木さんは週刊誌に写真入りで載ったり、日本タイポグラフィ協会っていうところから講演をしてくれと頼まれて登壇したりして。でも、それを知った当時の写研の部長が、ものすごい怒り方で鈴木さんに怒鳴ってたんです。「勝手にそんなところに出てるんじゃない!」って。それがなぜかというと、要するに文字のデザインはすごく匿名性が高いもので、一部の人間が目立つことを嫌ったんでしょうね。でも、一方で活字の歴史に詳しい方がいて、その人が言うには外国の書体は誰が何年に、どういうコンセプトでつくったかっていうものがちゃんと辞書みたいにまとめられていると。ところが日本の活字って、誰がつくったかが全然わからない。「それは文字の研究者たちにとっては非常にまずい」、「つくった側はもっと発信すべきだ」って言ってくれて。そこから私は、初めて人前で話すようになりました。

―意識の転換点だったと。

そうです。鈴木さんはよく「(日本語書体は1書体あたり約2万字もあって、複数の人たちでつくらなければならないので)書体はひとりでつくるもんじゃない」って言ってたんですけど、だから私も“鳥海がつくった書体”ではなく、常に“鳥海が関わった書体”っていう意識でいます。

―それがMacのような世界的なプラットフォームで採用されたときは、みなさんで喜びを共有できたんじゃないですか?

そのときは、鈴木さんはもう亡くなってしまってたんです。’98年、游明朝体の漢字を描いてる途中で亡くなったから、ジョブズの発表は見られなかった。さっき、字游工房はあんまり大変なことにはならなかったと言いましたけど、このときは残された私は大変でしたね。



―そうだったんですね…。鈴木さんにお会いしたこともない部外者ですけど、忸怩たる想いというか、
そんな気持ちになってしまいます…。


そのころ、妻も亡くなってるんです。字游工房をつくった直後くらいかな。白血病に罹ってることがわかって。そこ
から7年間、闘病という感じではなかったんだけど、急性転化して、どうしようもなくなってしまって。妻の病気が
わかったときは鈴木さんが慰めようと「奥さんも呼べよ」って、うちの近所の飲み屋で飲んで、カラオケに行ったり
して。鈴木さんは「俺には何も言えないんだよ…。なるようにしかならないんだよ…!」って、一緒に泣いてくれて。
そうしたら、今度は鈴木さんが自分も膵臓がんになったってわかって。電話がかかってきて「俺があんなことを言っ
たから、罰が当たったんだな…」って言うんです。それを聞いた妻は泣き崩れちゃって。鈴木さんは本当に優しい人
だったんです。

―そのストーリーを知ると、游明朝の一文字一文字から何かを感じるようになってしまいそうですね…。

鈴木さんの一周忌のときに、平野(甲賀)さんの提案で、鈴木さんの追悼本みたいなものを出そうとなったんですよ。
第1部と第2部に分けて、第1部は、鈴木さんが今までどんなことを考えて、どういう書体をつくったのか、っていう
紹介と、鈴木さんの業績みたいなものをまとめていたんです。そのときの書体が游明朝体のプロトタイプでした。そ
れが結構いろんな人たちが褒めてくださって。第2部は、鈴木さんへの追悼文をいろんな人から寄せてもらうことにし
て。1000部つくって、それをお世話になった人たちに無料で配りました。

―すごく粋な弔いの形ですね。

単なる追悼文集にしたくなかった。鈴木さんがいかに、どういう想いで書体をつくってきたかっていうほうが、私に
とってはメインだったんです。


―そうだったんですね…。鈴木さんにお会いしたこともない部外者ですけど、忸怩たる想いというか、そんな気持ちになってしまいます…。

そのころ、妻も亡くなってるんです。字游工房をつくった直後くらいかな。白血病に罹ってることがわかって。そこから7年間、闘病という感じではなかったんだけど、急性転化して、どうしようもなくなってしまって。妻の病気がわかったときは鈴木さんが慰めようと「奥さんも呼べよ」って、うちの近所の飲み屋で飲んで、カラオケに行ったりして。鈴木さんは「俺には何も言えないんだよ…。なるようにしかならないんだよ…!」って、一緒に泣いてくれて。そうしたら、今度は鈴木さんが自分も膵臓がんになったってわかって。電話がかかってきて「俺があんなことを言ったから、罰が当たったんだな…」って言うんです。それを聞いた妻は泣き崩れちゃって。鈴木さんは本当に優しい人だったんです。

―そのストーリーを知ると、游明朝の一文字一文字から何かを感じるようになってしまいそうですね…。

鈴木さんの一周忌のときに、平野(甲賀)さんの提案で、鈴木さんの追悼本みたいなものを出そうとなったんですよ。第1部と第2部に分けて、第1部は、鈴木さんが今までどんなことを考えて、どういう書体をつくったのか、っていう紹介と、鈴木さんの業績みたいなものをまとめていたんです。そのときの書体が游明朝体のプロトタイプでした。それが結構いろんな人たちが褒めてくださって。第2部は、鈴木さんへの追悼文をいろんな人から寄せてもらうことにして。1000部つくって、それをお世話になった人たちに無料で配りました。

―すごく粋な弔いの形ですね。

単なる追悼文集にしたくなかった。鈴木さんがいかに、どういう想いで書体をつくってきたかっていうほうが、私にとってはメインだったんです。




―そうした経験を経て、今の鳥海さんは文字のデザインの背景を積極的に発信したいと
思うようになったんでしょうか?


いや、それは人が決めることであって、私はもうどっちでもいいやと思ってます。数年前から自分の中ではフェーズ
が変わってきちゃって。私はずっと“何々のための書体づくり”っていうのをやってたんですよ。近代文学向けの書体
だとか、女流文学向けの書体をつくるだとか。だけど、そういうことをしてきた自分に対して、浅はかだなとあると
きから思うようになったんです。

―それはなぜでしょう?

本文用書体においては、やっぱり汎用性っていうのが大事だっていうふうに思うんです。例えば、“藤沢周平を組む”
とかって、それだけ見れば結構狭いじゃないですか。ただ、それをつくるときも、何にでも使える読みやすい書体、
美しい書体をつくろうと考えていたわけです。それが、私のつくってた書体って春の小川みたいだなと思ったんです
よ。きれいだけど、ある意味使い方が限定されたもの。それで春の小川もいいけれど、例えば中国の黄河みたいな、
泥だらけの大きな川がわあっと土地を泥水にして流れていくみたいな、荒々しい川みたいな部分もちゃんと含まない
といかん! と思うようになったんです。要は、もっと強い書体でなければと思ったんですね。究極を言えば、このひ
とつがあればいいじゃん、っていうものをつくりたいなって。

―本当に普遍的な書体がつくれたら、ということですか?

そうだね。それはまだ叶ってない。一応進めてはいるんだけど、他のプロジェクトもあるから遅々として進まなくて。
今やってるプロジェクトは来年、再来年くらいで終わると思うんだけど、モリサワにはその後は、こっちをやらせて
ねってお願いしてるんです。

―紙もデジタルもある時代に、普遍的であるというのはきっとすごく難しいことなんでしょうね。

私はもう、デジタルの液晶表示は捨てました。紙に印刷するものとしてだけ、考えています。だけど、それもDTPで
つくるわけで、やっぱりデジタルの書体になるわけですよね。印刷方式もダイレクト刷版経由のオフセット印刷とか、
表現がシャープになっていく中で、今の時代に見合うような書体を、やっぱりつくりたいって思うんですよ。

―そうした経験を経て、今の鳥海さんは文字のデザインの背景を積極的に発信したいと思うようになったんでしょうか?

いや、それは人が決めることであって、私はもうどっちでもいいやと思ってます。数年前から自分の中ではフェーズが変わってきちゃって。私はずっと“何々のための書体づくり”っていうのをやってたんですよ。近代文学向けの書体だとか、女流文学向けの書体をつくるだとか。だけど、そういうことをしてきた自分に対して、浅はかだなとあるときから思うようになったんです。

―それはなぜでしょう?

本文用書体においては、やっぱり汎用性っていうのが大事だっていうふうに思うんです。例えば、“藤沢周平を組む”とかって、それだけ見れば結構狭いじゃないですか。ただ、それをつくるときも、何にでも使える読みやすい書体、美しい書体をつくろうと考えていたわけです。それが、私のつくってた書体って春の小川みたいだなと思ったんですよ。きれいだけど、ある意味使い方が限定されたもの。それで春の小川もいいけれど、例えば中国の黄河みたいな、泥だらけの大きな川がわあっと土地を泥水にして流れていくみたいな、荒々しい川みたいな部分もちゃんと含まないといかん! と思うようになったんです。要は、もっと強い書体でなければと思ったんですね。究極を言えば、このひとつがあればいいじゃん、っていうものをつくりたいなって。

―本当に普遍的な書体がつくれたら、ということですか?

そうだね。それはまだ叶ってない。一応進めてはいるんだけど、他のプロジェクトもあるから遅々として進まなくて。今やってるプロジェクトは来年、再来年くらいで終わると思うんだけど、モリサワにはその後は、こっちをやらせてねってお願いしてるんです。

―紙もデジタルもある時代に、普遍的であるというのはきっとすごく難しいことなんでしょうね。

私はもう、デジタルの液晶表示は捨てました。紙に印刷するものとしてだけ、考えています。だけど、それもDTPでつくるわけで、やっぱりデジタルの書体になるわけですよね。印刷方式もダイレクト刷版経由のオフセット印刷とか、表現がシャープになっていく中で、今の時代に見合うような書体を、やっぱりつくりたいって思うんですよ。

“100年の風雪に耐えうる文字を”





―タイトルなどのデザイン書体と違って本文書体はそもそも必要な文字数が膨大ですし、
それを普遍的なものに、というのがいかに壮大な志なのかはわかる気がします。


私は、デザイン書体は全然ダメなんです。興味が湧かないというか、才能がないんですね、きっと。私は元々本文書体
が好きで、その理想は例えば水のような、空気のようなものだ、って写研の先輩に教わって。それを否定する人もいる
んですよ。「そんな状態、あるわけがない」って。だけど、私は、水のような、空気のような書体はひとつではないっ
ていうふうに捉えてるんです。それは、本文書体をつくる側がそういうふうに考えないといけないんじゃないかってい
う、考え方の指針だと思うんですよ。もっと個性を出そうとか、そういうことではなくて、空気を吸うように、水を飲
むように自然に体の中に入っていくような、そういう文字をつくりたいっていうことが肝だから。本文書体はそういう
ことを意識してつくるべきだというのが私の考え方です。

―仮に本当にそういう文字があったとしたら、きっと作者が誰かなんて、
誰も気にしないんでしょうね。デザイン書体はそこがすごく先に立ってくるのに。


デザイン書体はね、小賢しいと思うんですよ。私も、例えば谷川俊太郎さんの詩を組むためとか、そういうことを今ま
でやってきたけど、生意気というか…。思い上がりですよ、きっと。「何々のためにものをつくれる」って、おまえは、
そんなに偉かないだろうっていうふうに思うんです。私自身に対してね。デザイン書体も鈴木さんぐらいの完成度のもの
ならわかるんです。あるいは平野さんみたいに吹っ切れてればいいんですよ。だけど、今のデザイン書体はもうわから
ない。テレビのテロップとかを見ていると、浅はかな社会への迎合に感じてしまうことが多いです。私はそれとは一線を
画したいと思っています。


―タイトルなどのデザイン書体と違って本文書体はそもそも必要な文字数が膨大ですし、それを普遍的なものに、というのがいかに壮大な志なのかはわかる気がします。

私は、デザイン書体は全然ダメなんです。興味が湧かないというか、才能がないんですね、きっと。私は元々本文書体が好きで、その理想は例えば水のような、空気のようなものだ、って写研の先輩に教わって。それを否定する人もいるんですよ。「そんな状態、あるわけがない」って。だけど、私は、水のような、空気のような書体はひとつではないっていうふうに捉えてるんです。それは、本文書体をつくる側がそういうふうに考えないといけないんじゃないかっていう、考え方の指針だと思うんですよ。もっと個性を出そうとか、そういうことではなくて、空気を吸うように、水を飲むように自然に体の中に入っていくような、そういう文字をつくりたいっていうことが肝だから。本文書体はそういうことを意識してつくるべきだというのが私の考え方です。

―仮に本当にそういう文字があったとしたら、きっと作者が誰かなんて、誰も気にしないんでしょうね。デザイン書体はそこがすごく先に立ってくるのに。

デザイン書体はね、小賢しいと思うんですよ。私も、例えば谷川俊太郎さんの詩を組むためとか、そういうことを今までやってきたけど、生意気というか…。思い上がりですよ、きっと。「何々のためにものをつくれる」って、おまえは、そんなに偉かないだろうっていうふうに思うんです。私自身に対してね。デザイン書体も鈴木さんぐらいの完成度のものならわかるんです。あるいは平野さんみたいに吹っ切れてればいいんですよ。だけど、今のデザイン書体はもうわからない。テレビのテロップとかを見ていると、浅はかな社会への迎合に感じてしまうことが多いです。私はそれとは一線を画したいと思っています。




―水や空気のような、この先もずっとともにあるようなものを目指すには、ということですよね。
それでも、時間が経てば価値観や環境も少しずつ変わるでしょうし、時代を超える汎用性というのは、
きっと、すごく難しいテーマですよね。


でも、それはあるんです。例えば平野甲賀さんは、「100年の風雪に耐えうる文字をつくれ」というようなことを言
っていたんですけど、その100年の風雪に耐えた文字があるのかっていうと、実はあるんですよ。だけど、それはそ
のまま続いているわけじゃなくて、その姿は残しつつ、それぞれの時代に合うようにちょっとずつ修正を加えてる。
そういう残り方っていうのはありだと思うんです。印刷方式が変わったから微調整を加えたとか、そういうことは。
それの、元になればいいと思う。

―時間の経過次第では、そこにつくり手とは別の人が手を加えることもあるんでしょうね。

私は、それでいいんじゃないかと思います。本文書体って、元々誰かがまったく新しいものをつくったわけではない
ですよね。どこかで文字っていうものが発生して、誰かによって工夫され、また誰かによって読みやすくされ…みた
いなことで。文字という歴史を見れば、突然変異みたいなことはなくて、ずっと連続して流れてきたもの。少しずつ、
改良を加えながら。特に本文書体では、私は読みやすい書体っていうのは、逆にそういうものでなければいけないっ
て思っています。


―水や空気のような、この先もずっとともにあるようなものを目指すには、ということですよね。それでも、時間が経てば価値観や環境も少しずつ変わるでしょうし、時代を超える汎用性というのは、きっと、すごく難しいテーマですよね。

でも、それはあるんです。例えば平野甲賀さんは、「100年の風雪に耐えうる文字をつくれ」というようなことを言っていたんですけど、その100年の風雪に耐えた文字があるのかっていうと、実はあるんですよ。だけど、それはそのまま続いているわけじゃなくて、その姿は残しつつ、それぞれの時代に合うようにちょっとずつ修正を加えてる。そういう残り方っていうのはありだと思うんです。印刷方式が変わったから微調整を加えたとか、そういうことは。それの、元になればいいと思う。

―時間の経過次第では、そこにつくり手とは別の人が手を加えることもあるんでしょうね。

私は、それでいいんじゃないかと思います。本文書体って、元々誰かがまったく新しいものをつくったわけではないですよね。どこかで文字っていうものが発生して、誰かによって工夫され、また誰かによって読みやすくされ…みたいなことで。文字という歴史を見れば、突然変異みたいなことはなくて、ずっと連続して流れてきたもの。少しずつ、改良を加えながら。特に本文書体では、私は読みやすい書体っていうのは、逆にそういうものでなければいけないって思っています。




―すごくわかります。一方でコウガグロテスクみたいな個性的なフォントもつくりながら、
そうした視点も持っていた平野さんの感性には、やっぱり驚かされますね。


すごいよね。だって普通、書体ってさ、スタイルを合わせたり、太さを合わせたりするじゃない? コウガグロテスクは、
それが何も合ってないんだから。別々のものから持ってきて、組み合わせるんだからね。

―すごいですよね。秩序とは真逆の発想というか、クリエイションで。

そうそう。それが、彼にとっての秩序だったんだろうね。でも、平野さんが言ってたんですよ。「おまえらみたいなきっ
ちりとした字をつくるやつがいるから、俺たちはこうして遊べるんだよ」って。きっと、そうなんだろうな、って。私も
平野さんの真似をしようとは、やっぱり思わないから。

―それが素敵な尊重の形に感じられます。

今、私が文字塾というのをやっているんだけど、それを始めたのも平野さんに「ちょっとやってみない?」と言われたの
がきっかけです。平野さんは1年で終わっても良かったみたいなんですけど、私はそれ以降も続けていて。その目的は、
やっぱり文字をつくるっていうことには長い歴史があって、そういう文字にまつわるいろんな知識であったりをみんなで
共有することなんです。そうすることで、日本文化に少しは貢献できるじゃないかなって、そんな願いを込めて継続
してます。やっぱり知って欲しいなって思うんです。文字をつくるって、面白いんだっていうことを。

―すごくわかります。一方でコウガグロテスクみたいな個性的なフォントもつくりながら、そうした視点も持っていた平野さんの感性には、やっぱり驚かされますね。

すごいよね。だって普通、書体ってさ、スタイルを合わせたり、太さを合わせたりするじゃない? コウガグロテスクは、それが何も合ってないんだから。別々のものから持ってきて、組み合わせるんだからね。

―すごいですよね。秩序とは真逆の発想というか、クリエイションで。

そうそう。それが、彼にとっての秩序だったんだろうね。でも、平野さんが言ってたんですよ。「おまえらみたいなきっちりとした字をつくるやつがいるから、俺たちはこうして遊べるんだよ」って。きっと、そうなんだろうな、って。私も平野さんの真似をしようとは、やっぱり思わないから。

―それが素敵な尊重の形に感じられます。

今、私が文字塾というのをやっているんだけど、それを始めたのも平野さんに「ちょっとやってみない?」と言われたのがきっかけです。平野さんは1年で終わっても良かったみたいなんですけど、私はそれ以降も続けていて。その目的は、やっぱり文字をつくるっていうことには長い歴史があって、そういう文字にまつわるいろんな知識であったりをみんなで共有することなんです。そうすることで、日本文化に少しは貢献できるんじゃないかなって、そんな願いを込めて継続してます。やっぱり知って欲しいなって思うんです。文字をつくるって、面白いんだっていうことを。







鳥海修|とりのうみおさむ
書体設計士

1955年生まれ、山形県出身。カーデザインからデザインの世界への関心を深め、多摩美術大学を卒業後
の’79年に株式会社写研へ入社。その後鈴木勉さん、Kさんとともに独立し、’89年に有限会社字游工房を
設立した。これまでに手掛けた書体の数は150を超える。現在は1年をかけて書体設計や文字に触れてゆく
講座、松本文字塾を開催中。落語贔屓で、好きな噺家は古今亭志ん朝。

X: @torino036




着用アイテム : ROWARTH / SKYE BLUE

鳥海修|とりのうみおさむ
書体設計士

1955年生まれ、山形県出身。カーデザインからデザインの世界への関心を深め、多摩美術大学を卒業後の’79年に株式会社写研へ入社。その後鈴木勉さん、Kさんとともに独立し、’89年に有限会社字游工房を設立した。これまでに手掛けた書体の数は150を超える。現在は1年をかけて書体設計や文字に触れてゆく講座、松本文字塾を開催中。落語贔屓で、好きな噺家は古今亭志ん朝。


X: @torino036




着用アイテム : ROWARTH / SKYE BLUE






LAUNDRY DETERGENT