1. Finest Fit Guide – 若山嘉代子 / KAYOKO WAKAYAMA


「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃない
けれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきり
と映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェア
がよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はエディトリアルデザイナーの若山嘉代子さんの場合。

Photograph_Takashi Ehara
Text & Edit_Rui Konno

「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃないけれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきりと映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェアがよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はエディトリアルデザイナーの若山嘉代子さんの場合。

Photograph_Takashi Ehara
Text & Edit_Rui Konno

“小学校の文集に「本のデザインをしたい」って
書いてたんです。初志貫徹ですね(笑)”



―今回、若山さんにはスメドレーの展示会の際にインタビューのご相談をさせていただきましたけど、
お越しいただけた経緯を改めてお聞かせいただけますか?


私がグリーンショップ(『暮しの手帖』から生まれた通販会社)のカタログのお仕事を長年しているんです。それで
ディレクターの細川(寿美)さんが「年歳を重ねても着られるベーシックな服があるといいね」と探していて、スメ
ドレーに繋がりました。「若いときと違ってカジュアルでもきちんと見える服がいいな」という自分自身の興味もあ
って、展示会にうかがうときにご一緒させていただくようになりました。

―そんな流れだったんですね! 若山さんもスメドレーを着てくださっていたんですよね。

はい。スメドレーを初めて知ったのはコム デ ギャルソンとのコラボでした。調べてみたら1990年頃かな、表参道の
ショップができてわりとすぐだったと思います。そこに細かいドットが正方形に並ぶワンポイントが胸についたVネ
ックだったりタートルだったり、色も形もベーシックなアイテムが並んでいて。そのときに買ったセーターを長く着
ていたから、質のよさは知っていました。

―でも、グリーンショップではデザイナーの若山さんが商品構成や買い付けにも携わってるんですか?

買い付けはしていないですが、仕事によってケースバイケースです。すでにある材料でデザインするお仕事もありま
すし、グリーンショップみたいに分野を超えてかかわるのも好きなんです(笑)。本の仕事が主ですけど、仕事のか
かわり方を決めているわけではなくて、制作過程ではなるべく撮影にも行くようにしてます。

―若山さんが積極的に撮影に立ち会われるのはなぜなんでしょう?

撮影から仕事に寄り添っていると本のイメージも膨らんで、デザインするのが早くて。素材をもらうだけのデザイン
は、内容を頭に入れるまでにすごく時間がかかるんですよ。本当は現場にそんなにいなくてもいいのかもしれません
けど、結果、いい本につながることが多いんです。

―確かに、その現場から見ているとデザインの意図や目的がはっきりした状態で臨めそうですね。

私の仕事はアンカーだと思ってるところが昔からあって。伴走して最後に走るのと、最後にバトンを渡されて走るの
はやっぱりちょっと違いますよね。どちらも好きですけど、グリーンショップは伴走タイプかもしれません。いい商
品があると、私も伝えたりして。細川さんは交渉も仕入れもすごい早くて、次に会ったときには「これですか?」っ
て。私の適当な説明でどうやって探したの? っていうくらい(笑)。

―すごい(笑)。若山さんはお仕事柄、新しいものとの出会いや発見は多いでしょうしね。

そうですね。百貨店の冊子のお仕事をしてるんですけど、それもちょっと似ていて。いろんなバイヤーさんから商品
への想いを聞いて、一冊に編集するんです。そこで知らない商品と出会うことも多いです。

―今回、若山さんにはスメドレーの展示会の際にインタビューのご相談をさせていただきましたけど、 お越しいただけた経緯を改めてお聞かせいただけますか?

私がグリーンショップ(『暮しの手帖』から生まれた通販会社)のカタログのお仕事を長年しているんです。それでディレクターの細川(寿美)さんが「年歳を重ねても着られるベーシックな服があるといいね」と探していて、スメドレーに繋がりました。「若いときと違ってカジュアルでもきちんと見える服がいいな」という自分自身の興味もあって、展示会にうかがうときにご一緒させていただくようになりました。

―そんな流れだったんですね! 若山さんもスメドレーを着てくださっていたんですよね。

はい。スメドレーを初めて知ったのはコム デ ギャルソンとのコラボでした。調べてみたら1990年頃かな、表参道のショップができてわりとすぐだったと思います。そこに細かいドットが正方形に並ぶワンポイントが胸についたVネックだったりタートルだったり、色も形もベーシックなアイテムが並んでいて。そのときに買ったセーターを長く着ていたから、質のよさは知っていました。

―でも、グリーンショップではデザイナーの若山さんが商品構成や買い付けにも携わってるんですか?

買い付けはしていないですが、仕事によってケースバイケースです。すでにある材料でデザインするお仕事もありますし、グリーンショップみたいに分野を超えてかかわるのも好きなんです(笑)。本の仕事が主ですけど、仕事のかかわり方を決めているわけではなくて、制作過程ではなるべく撮影にも行くようにしてます。

―若山さんが積極的に撮影に立ち会われるのはなぜなんでしょう?

撮影から仕事に寄り添っていると本のイメージも膨らんで、デザインするのが早くて。素材をもらうだけのデザインは、内容を頭に入れるまでにすごく時間がかかるんですよ。本当は現場にそんなにいなくてもいいのかもしれませんけど、結果、いい本につながることが多いんです。

―確かに、その現場から見ているとデザインの意図や目的がはっきりした状態で臨めそうですね。

私の仕事はアンカーだと思ってるところが昔からあって。伴走して最後に走るのと、最後にバトンを渡されて走るのはやっぱりちょっと違いますよね。どちらも好きですけど、グリーンショップは伴走タイプかもしれません。いい商品があると、私も伝えたりして。細川さんは交渉も仕入れもすごい早くて、次に会ったときには「これですか?」って。私の適当な説明でどうやって探したの? っていうくらい(笑)。

―すごい(笑)。若山さんはお仕事柄、新しいものとの出会いや発見は多いでしょうしね。

そうですね。百貨店の冊子のお仕事をしてるんですけど、それもちょっと似ていて。いろんなバイヤーさんから商品への想いを聞いて、一冊に編集するんです。そこで知らない商品と出会うことも多いです。


―格式のある百貨店だと、やっぱり商品の幅も広そうです。

時には人間国宝の作品もありますしね。そういうものに商品として手を触れることはすごく勉強になります。最
終的にはデザインするのが仕事なんですけどね。

―デザイナーの枠を飛び出た活動ですよね。いろんなメディアだと、若山さんはエディトリアルデザイナー
という紹介のされ方をよくしていますけど、それはご自身でも使われている肩書ですか?


そうですね。枠からはみ出した仕事も多いですけど、基本はブックデザイン、エディトリアルデザインが私の
仕事だと思っています。

―今まで若山さんがデザインを手掛けられてきた本って、何冊くらいになるんでしょうか?

どうだろう…。事務所をもう45年やっていて、年に10冊だとしても450冊ですもんね。実際はもっとあるかな、
ちょっとわからないです(笑)。

―すごい数ですね…! そもそも若山さんがブックデザインを志したのはいつ頃だったんですか?

小学校の卒業文集には「商業デザイナーになって、本と写真のデザインをしたい」って書いてたんです。だから、
初志貫徹ですね(笑)。

―そうだったんですか。でも、本をデザインされているものとして認識できてる小学生っていうのは
かなりハイレベルじゃないですか?


うちは実家が印刷業なんですよ。それで、小さいころから印刷物が身近だったんです。小学校の夏休みの自由研究
をギリギリまでやってなくて、「印刷のできるまで」を慌てて仕上げたこともあります。工場から印刷途中の刷り
出しをもらってきて、4色の重なりを順を追って見せたんです。「初めにスミ、次にアイ、紅、最後に黄を重ねま
す」って具合に。こんなのでいいのかな? って思ってたら、意外とそれがウケたんですよ。

―意外じゃないですよ。そんなのズルいです(笑)。

(笑)。あとは実家を整理してたときに出てきた箱の中に、小学校1年生の絵や絵日記などがたくさんとってあっ
て、その中からテストをホッチキスでとめたものが出てきたんです。昔だから藁半紙に謄写版で刷ったようなのが。
それが教科別に『りかのさくひん』、『こくごのさくひん』とタイトルと絵を描いた表紙がそれぞれに付けてあっ
て、1年分ずつ綴じてあって。

―製本されていたと?

そうなんです。なんでも本にするのがすごく好きだったみたいで(笑)。文章を読むよりも、本自体が好きだった
のかなって思います。

―格式のある百貨店だと、やっぱり商品の幅も広そうです。

時には人間国宝の作品もありますしね。そういうものに商品として手を触れることはすごく勉強になります。最終的にはデザインするのが仕事なんですけどね。

―デザイナーの枠を飛び出た活動ですよね。いろんなメディアだと、若山さんはエディトリアルデザイナーという紹介のされ方をよくしていますけど、それはご自身でも使われている肩書ですか?

そうですね。枠からはみ出した仕事も多いですけど、基本はブックデザイン、エディトリアルデザインが私の仕事だと思っています。

―今まで若山さんがデザインを手掛けられてきた本って、何冊くらいになるんでしょうか?

どうだろう…。事務所をもう45年やっていて、年に10冊だとしても450冊ですもんね。実際はもっとあるかな、ちょっとわからないです(笑)。

―すごい数ですね…! そもそも若山さんがブックデザインを志したのはいつ頃だったんですか?

小学校の卒業文集には「商業デザイナーになって、本と写真のデザインをしたい」って書いてたんです。だから、初志貫徹ですね(笑)。

―そうだったんですか。でも、本をデザインされているものとして認識できてる小学生っていうのはかなりハイレベルじゃないですか?

うちは実家が印刷業なんですよ。それで、小さいころから印刷物が身近だったんです。小学校の夏休みの自由研究をギリギリまでやってなくて、「印刷のできるまで」を慌てて仕上げたこともあります。工場から印刷途中の刷り出しをもらってきて、4色の重なりを順を追って見せたんです。「初めにスミ、次にアイ、紅、最後に黄を重ねます」って具合に。こんなのでいいのかな? って思ってたら、意外とそれがウケたんですよ。

―意外じゃないですよ。そんなのズルいです(笑)。

(笑)。あとは実家を整理してたときに出てきた箱の中に、小学校1年生の絵や絵日記などがたくさんとってあって、その中からテストをホッチキスでとめたものが出てきたんです。昔だから藁半紙に謄写版で刷ったようなのが。それが教科別に『りかのさくひん』、『こくごのさくひん』とタイトルと絵を描いた表紙がそれぞれに付けてあって、1年分ずつ綴じてあって。

―製本されていたと?

そうなんです。なんでも本にするのがすごく好きだったみたいで(笑)。文章を読むよりも、本自体が好きだったのかなって思います。


―読み物としてより、本そのものに興味をひかれたんですね。

例えば1枚の写真があったとして、別の写真と並べると違う見え方が生まれてくるじゃないですか? それが何
枚も順を追って綴じられていくと、さらに別の意味が生まれてくる。そういうことがデザインではできるんで
す。そうやって、写真が個々じゃなく一冊になっていることが好きなんです。見る人は個々の写真を見ている
のだけれど、何度も繰り返し見ているうちに違う気づきがあったりして。そうやって何回も見られる本がすご
くいいなと思うし、そういう仕掛けができるのは本の面白さだなと思います。

―後効きというやつですね。

そうそう。はじめから全体の構成が勝っているようなのは、ちょっと違うかなと思うんですよ。もちろんその
良さもあると思うけど、私が思うデザインというのは素材を活かせていて、読み手は全体の仕掛けには気づか
ないけど、何度も見返していくうちに新しい気づきがあるようなもの。見返したら「こういうことだったのか」
っていうような。それはウェブじゃなかなかできないような気がします。

―近年はより即効性のあるものの優先順位が高くなってきてしまった気がします。

昔は今みたいにみんなで画面を共有してすぐに確認することもできなかったから、想像力を各自がフル回転さ
せて、バトンを渡すように仕事をしてました。でも、デザイナーはそれぞれの仕事を全部把握しているから、
頭の中ででき上がった本のページをめくることができたんです。それがものすごく面白くて。

―撮影もひと昔前まではフィルムでしたし、すぐ確認できるものじゃなかったですもんね。

すぐに確認できないから、意思疎通もすごく重要でした。カメラマンとの議論が沸騰することもよくありまし
たね(笑)。

―読み物としてより、本そのものに興味をひかれたんですね。

例えば1枚の写真があったとして、別の写真と並べると違う見え方が生まれてくるじゃないですか? それが何枚も順を追って綴じられていくと、さらに別の意味が生まれてくる。そういうことがデザインではできるんです。そうやって、写真が個々じゃなく一冊になっていることが好きなんです。見る人は個々の写真を見ているのだけれど、何度も繰り返し見ているうちに違う気づきがあったりして。そうやって何回も見られる本がすごくいいなと思うし、そういう仕掛けができるのは本の面白さだなと思います。

―後効きというやつですね。

そうそう。はじめから全体の構成が勝っているようなのは、ちょっと違うかなと思うんですよ。もちろんその良さもあると思うけど、私が思うデザインというのは素材を活かせていて、読み手は全体の仕掛けには気づかないけど、何度も見返していくうちに新しい気づきがあるようなもの。見返したら「こういうことだったのか」っていうような。それはウェブじゃなかなかできないような気がします。

―近年はより即効性のあるものの優先順位が高くなってきてしまった気がします。

昔は今みたいにみんなで画面を共有してすぐに確認することもできなかったから、想像力を各自がフル回転させて、バトンを渡すように仕事をしてました。でも、デザイナーはそれぞれの仕事を全部把握しているから、頭の中ででき上がった本のページをめくることができたんです。それがものすごく面白くて。

―撮影もひと昔前まではフィルムでしたし、すぐ確認できるものじゃなかったですもんね。

すぐに確認できないから、意思疎通もすごく重要でした。カメラマンとの議論が沸騰することもよくありましたね(笑)。


―いろんな変化を見ていると、どうしても現代と比較してしまうところがきっとありますよね。

でも、現代の方法での発見もやっぱりありました。最近、印刷所のプリンティングディレクターに教えられた
ことでなんですけど、すごく熱心な人だったんです。フィルムからデジタルに変わって明るすぎる写真の印刷
との相性があまりよくなくなったから、私は写真を印刷の特性に合わせようとしていたんです。でもその人は
「デジタルの欠点は気にしなくていいです」って言うんです。「やりたいこと、何でも言ってください! 印刷
技術がそれに合わせます」って。

―やっぱりそういう熱意のある人はちゃんといるんですね。デジタルはフィルムの代替じゃなく、
両方が共存できるもののような気もしますし。


本当にそう思います。デジタルで“写っている”ということと、フィルムで“写っている”ということは、ニュアン
スが全然違うから。フィルムではディテールは写っていないけど、写っているものがたくさんあると思う。やっ
ぱりフィルムの良さは感じます。でも、時代が変わっていっても、その時々でベストは尽くせるんだなって。

―いろんな変化を見ていると、どうしても現代と比較してしまうところがきっとありますよね。

でも、現代の方法での発見もやっぱりありました。最近、印刷所のプリンティングディレクターに教えられたことでなんですけど、すごく熱心な人だったんです。フィルムからデジタルに変わって明るすぎる写真の印刷との相性があまりよくなくなったから、私は写真を印刷の特性に合わせようとしていたんです。でもその人は「デジタルの欠点は気にしなくていいです」って言うんです。「やりたいこと、何でも言ってください! 印刷技術がそれに合わせます」って。

―やっぱりそういう熱意のある人はちゃんといるんですね。デジタルはフィルムの代替じゃなく、両方が共存できるもののような気もしますし。

本当にそう思います。デジタルで“写っている”ということと、フィルムで“写っている”ということは、ニュアンスが全然違うから。フィルムではディテールは写っていないけど、写っているものがたくさんあると思う。やっぱりフィルムの良さは感じます。でも、時代が変わっていっても、その時々でベストは尽くせるんだなって。


“やりたいことが見えているなら、
今あるものでそこに近づけるかなって”


―懐古主義だと新しいものが生まれにくくなってしまいそうですよね。

その印刷所の人はすごいなと思ったし、私もそうあるべきだなと思いました。工芸の方々の取材に立ち会うこと
もあるんですけど、技術の伝承の危惧だけじゃなく、そのための道具をつくる人もどんどんいなくなってしまっ
てるそうなんです。だけど、その中でもみなさんすごく工夫をされてるんですよ。つくりたいものがはっきり見
えているから、今あるもので近づこうとする努力を惜しまない。やっぱり目的が明確であることが一番大事かな
と思います。そこがブレてたら何もできないし、楽しくないですよ。

―デザインにおいて、目的というのはやっぱり大切なんですね。アートとデザインの違いみたいな議論は、
世界中で繰り返されてきたと思いますけど、若山さんも当初からそんなすみ分けは意識されていましたか?


そうですね。ただ、私が大学を出た1970年代のデザイナーには、美意識の高いアーティストに近い人が多かった
と思います。

―若山さんがそれを実感したのはいつごろだったんでしょう?

卒業してすぐに入ったデザイン事務所で1年半くらいアシスタントをしていたんですけど、その事務所をやって
いたデザイナーは本当にすごい人でした。食事ひとつにも妥協しない、生活そのものに対しても美意識の塊みた
いな人だったんです。そこではじめて、自分の意識とのギャップを感じました。私はアシスタントと言っても何
もできないし、雑用のお手伝いさんみたいなものだったから。

―厳しい方だったんでしょうね。

ことごとく「ダメ」の連発でしたよ。ほとんど毎日、デザイナーの仕事とは関係のないところまで注意されまし
た(笑)。現代からすると、ちょっと考えられないですね。

―熱量がそれを是とするような時代の空気もあったんでしょうね…。その方はどんなジャンルの
デザインをされてたんですか?


グラフィックデザイナーでCMだとか舞台だとかまで、いろんな分野をやっていた方でした。名のある人たちもた
くさん出入りしていて、「大丈夫?」と優しく声をかけてもらうんですけど、そのときは「声をかけないでくださ
い!」って自分の気配を消していました(笑)。

―うわぁ…。

それまでの人生でそんなにダメダメと言われたことはなかったから本当に落ち込んで。身体も壊して、デザイナー
を辞めたんです。

―懐古主義だと新しいものが生まれにくくなってしまいそうですよね。

その印刷所の人はすごいなと思ったし、私もそうあるべきだなと思いました。工芸の方々の取材に立ち会うこともあるんですけど、技術の伝承の危惧だけじゃなく、そのための道具をつくる人もどんどんいなくなってしまってるそうなんです。だけど、その中でもみなさんすごく工夫をされてるんですよ。つくりたいものがはっきり見えているから、今あるもので近づこうとする努力を惜しまない。やっぱり目的が明確であることが一番大事かなと思います。そこがブレてたら何もできないし、楽しくないですよ。

―デザインにおいて、目的というのはやっぱり大切なんですね。アートとデザインの違いみたいな議論は、世界中で繰り返されてきたと思いますけど、若山さんも当初からそんなすみ分けは意識されていましたか?

そうですね。ただ、私が大学を出た1970年代のデザイナーには、美意識の高いアーティストに近い人が多かったと思います。

―若山さんがそれを実感したのはいつごろだったんでしょう?

卒業してすぐに入ったデザイン事務所で1年半くらいアシスタントをしていたんですけど、その事務所をやっていたデザイナーは本当にすごい人でした。食事ひとつにも妥協しない、生活そのものに対しても美意識の塊みたいな人だったんです。そこではじめて、自分の意識とのギャップを感じました。私はアシスタントと言っても何もできないし、雑用のお手伝いさんみたいなものだったから。

―厳しい方だったんでしょうね。

ことごとく「ダメ」の連発でしたよ。ほとんど毎日、デザイナーの仕事とは関係のないところまで注意されました(笑)。現代からすると、ちょっと考えられないですね。

―熱量がそれを是とするような時代の空気もあったんでしょうね…。その方はどんなジャンルのデザインをされてたんですか?

グラフィックデザイナーでCMだとか舞台だとかまで、いろんな分野をやっていた方でした。名のある人たちもたくさん出入りしていて、「大丈夫?」と優しく声をかけてもらうんですけど、そのときは「声をかけないでください!」って自分の気配を消していました(笑)。

―うわぁ…。

それまでの人生でそんなにダメダメと言われたことはなかったから本当に落ち込んで。身体も壊して、デザイナーを辞めたんです。


―え! そうだったんですか!?

「もう辞めます…」って言ったら、「あなたみたいに何もできなくて、よく辞めるとかって言えるわね」って言わ
れました(笑)。それで、結局その事務所を辞めてから結婚したんですけど、現実から逃げたものはやっぱり長く
は続かなくて離婚しました。それだったらやっぱりデザイナーを仕事にしようと思って、大学の友人とふたりで事
務所を始めたのが27歳。それから45年続けてます。

―そんな過酷な時期を過ごされてたんですね。若山さんのいろんなプロフィールでも、事務所設立以前の
お話がほとんど出てこなかった理由がわかりました(笑)。


当時はまだファックスもない時代で、うちの事務所にはコピー機もなかったんです。ある日、「コピー機、置きま
せんか?」と営業マンが来たから話を聞いたら「5年リースです」って言うんですよ。私たちは「5年もきっと仕
事を続けられないから、3年リースに」って(笑)。こんな頼りない感じで仕事が始まったんですけど、幸い、いろ
んな人からお仕事をいただけて。

―それが45年続いていると。マックもない時代ですし、コピー機の拡大・縮小とかは必要だったでしょうね。

コピー機さえまだ新しい時代で、トレースしながらやってました。アシスタント時代には、月刊の文芸誌のデザイ
ンも手伝ってました。詩の連載の文字貼りです。モリサワのフォントと写研のフォントの2種類で詩を組んだもの
から、ひらがなはモリサワ、漢字は写研と1字ずつ拾って、糊で手貼りして合成フォントにしていくから、ひとつ
の詩に何日もかかるんです。「あぁ、今月は長い詩だ…」って(笑)。その後一緒に事務所を始めた友だちも、ア
シスタント時代は8級(2mm)の文字を貼って詰めてたと言ってました。

―本当に地道でストイックな作業ですね…。

自分で事務所を始めてからも、原稿を写植屋さんに持って行くか、短いものだったら電話で書き取ってもらって依
頼してたんです。だけど、手間をかけて指定しても、ひとつ間違えると「あれ!?」ってびっくりするものが上が
ってくる。そのたびに「すみません!」って。行間・字間のバランス感みたいなものは、そうやって失敗しながら
覚えました。でも、その時代があったから、こういうふうにやりたいって仕上がりを想像して目指すことが、今は
できてるんだと思います。

―大変な分だけ、得られるものもあったと。

今はPCでデザインも写真もすぐに確認できるし、何パターンも簡単にできますよね。しかも、画面ではどれも完成
度が高そうに見えるんですよ。でも、ウェブだと見てる人の環境も違うから、どんなフォントで見られてるかもわ
からないでしょう? だから、「こう見てほしい!」っていうこだわりは薄れがち。その意識を持って仕事に臨みた
いっていうところはアシスタントに教えるのもなかなか難しくて。

―え! そうだったんですか!?

「もう辞めます…」って言ったら、「あなたみたいに何もできなくて、よく辞めるとかって言えるわね」って言われました(笑)。それで、結局その事務所を辞めてから結婚したんですけど、現実から逃げたものはやっぱり長くは続かなくて離婚しました。それだったらやっぱりデザイナーを仕事にしようと思って、大学の友人とふたりで事務所を始めたのが27歳。それから45年続けてます。

―そんな過酷な時期を過ごされてたんですね。若山さんのいろんなプロフィールでも、事務所設立以前のお話がほとんど出てこなかった理由がわかりました(笑)。

当時はまだファックスもない時代で、うちの事務所にはコピー機もなかったんです。ある日、「コピー機、置きませんか?」と営業マンが来たから話を聞いたら「5年リースです」って言うんですよ。私たちは「5年もきっと仕事を続けられないから、3年リースに」って(笑)。こんな頼りない感じで仕事が始まったんですけど、幸い、いろんな人からお仕事をいただけて。

―それが45年続いていると。マックもない時代ですし、コピー機の拡大・縮小とかは必要だったでしょうね。

コピー機さえまだ新しい時代で、トレースしながらやってました。アシスタント時代には、月刊の文芸誌のデザインも手伝ってました。詩の連載の文字貼りです。モリサワのフォントと写研のフォントの2種類で詩を組んだものから、ひらがなはモリサワ、漢字は写研と1字ずつ拾って、糊で手貼りして合成フォントにしていくから、ひとつの詩に何日もかかるんです。「あぁ、今月は長い詩だ…」って(笑)。その後一緒に事務所を始めた友だちも、アシスタント時代は8級(2mm)の文字を貼って詰めてたと言ってました。

―本当に地道でストイックな作業ですね…。

自分で事務所を始めてからも、原稿を写植屋さんに持って行くか、短いものだったら電話で書き取ってもらって依頼してたんです。だけど、手間をかけて指定しても、ひとつ間違えると「あれ!?」ってびっくりするものが上がってくる。そのたびに「すみません!」って。行間・字間のバランス感みたいなものは、そうやって失敗しながら覚えました。でも、その時代があったから、こういうふうにやりたいって仕上がりを想像して目指すことが、今はできてるんだと思います。

―大変な分だけ、得られるものもあったと。

今はPCでデザインも写真もすぐに確認できるし、何パターンも簡単にできますよね。しかも、画面ではどれも完成度が高そうに見えるんですよ。でも、ウェブだと見てる人の環境も違うから、どんなフォントで見られてるかもわからないでしょう? だから、「こう見てほしい!」っていうこだわりは薄れがち。その意識を持って仕事に臨みたいっていうところはアシスタントに教えるのもなかなか難しくて。


―根性論とはまた別に、その経験を踏んでいないと身に付かない能力があるんでしょうね。

本にこだわらない時代が来るのかもしれないけど、本を読んでいていいと思ったものはどうしてだろう、と感じて
欲しいですね。測ってみて、読みやすさのバランスを自分の目で見て確かめて感覚を育ててもらいたい。文字が小
さくても読みやすくする方法もあるし、文字が大きくても読みにくいことだってあると思います。

―PCでカーニングの数値だけを見ていても、きっと感覚的な部分はコントロール
しにくいんだろうなと思いました。


さっき言ったみたいに、目指すもののためにその技術を使うんであって、その手段と目的が逆転しちゃうとやっぱ
り到達しないんです。簡単にできちゃう分、余計に。私はできなかった時代が長かったから、自分の目指すものが
ゆっくりわかってきたんだと思います。

―根性論とはまた別に、その経験を踏んでいないと身に付かない能力があるんでしょうね。

本にこだわらない時代が来るのかもしれないけど、本を読んでいていいと思ったものはどうしてだろう、と感じて欲しいですね。測ってみて、読みやすさのバランスを自分の目で見て確かめて感覚を育ててもらいたい。文字が小さくても読みやすくする方法もあるし、文字が大きくても読みにくいことだってあると思います。

―PCでカーニングの数値だけを見ていても、きっと感覚的な部分はコントロール しにくいんだろうなと思いました。

さっき言ったみたいに、目指すもののためにその技術を使うんであって、その手段と目的が逆転しちゃうとやっぱり到達しないんです。簡単にできちゃう分、余計に。私はできなかった時代が長かったから、自分の目指すものがゆっくりわかってきたんだと思います。

“いいと思わないものはわからなくていい。
そうしないと、気づく楽しさもなくなっちゃう”


―気持ちは込もりますよね。やるべきことが多い分、責任感も強まりそうですし。

以前は、できあがった仕事を送り出したときにはもう言い訳はできない。それまでは最善を尽くそうという気持
ちがとても強かったです。PCになってからは、あまりそう思わなくなったんですけど。責任感から少し解放され
たのかも(笑)。

―でも、こうやってお話ししていると若山さんはデザイナーなんですけど、すごく編集者的な
視点をお持ちだなと感じます。


私が30代だったころは時代も本当に余裕があったし、可愛がってくれる編集者の先輩もいて、実際に「編集もや
ったら?」と言ってもらって。本当にラッキーだったと思います。最初の編集は『勝手におやつ』という本でし
た。今じゃ当たり前なんですけど、当時は珍しかった横組みの料理書だったんです。判型も変だし期待されてい
なかったんですが(笑)、幸いそれが売れて、その後もシリーズで私が編集・デザインするようになりました。

―気持ちは込もりますよね。やるべきことが多い分、責任感も強まりそうですし。

以前は、できあがった仕事を送り出したときにはもう言い訳はできない。それまでは最善を尽くそうという気持ちがとても強かったです。PCになってからは、あまりそう思わなくなったんですけど。責任感から少し解放されたのかも(笑)。

―でも、こうやってお話ししていると若山さんはデザイナーなんですけど、すごく編集者的な視点をお持ちだなと感じます。

私が30代だったころは時代も本当に余裕があったし、可愛がってくれる編集者の先輩もいて、実際に「編集もやったら?」と言ってもらって。本当にラッキーだったと思います。最初の編集は『勝手におやつ』という本でした。今じゃ当たり前なんですけど、当時は珍しかった横組みの料理書だったんです。判型も変だし期待されていなかったんですが(笑)、幸いそれが売れて、その後もシリーズで私が編集・デザインするようになりました。


―若山さんは料理書のデザインをされているイメージもすごくあるんですが、何か興味を持つ
きっかけがあったんですか?


事務所を始めてから、ありがたいことにいろんなお仕事をいただいて続けていたんですけど、「今のこれが目指
すものなのか?」と、ちょっと嫌になってしまって。その前のアシスタント時代の仕事とのギャップがあまりに
もあったからかもしれませんが、それで「ちょっと休むね」と30歳のときに半年間仕事を休んで、ニューヨーク
に行ってたんです。当時は1ドル250円だったから貧乏生活だったけど、1980年代のニューヨークはすごく景気
が良くて活気もあって、本屋さんにはプレゼントになるような美しい料理書がとてもいい所にワーっと並んでた
んです。でも、日本だと料理の本は実用書として、本屋さんの奥の棚に『○○になる技術書』みたいな本の横に
地味に置かれてたりしていて。

―ワクワクしながら読むようなものじゃなかったんですね。

そうそう。何で日本にはそういう料理の本がないんだろう? ニューヨークで見たような本がつくりたい! と思っ
てたら、帰国した翌日に、「料理の冊子をデザインしませんか?」っていう電話があったんですよ。

―すごいタイミングですね!?

月刊の小さい冊子だったんだけど、それが結局3年続いて。料理の大先生にもたくさん会いに行きました。だけ
ど、私も当時は尖っていて、そういう大先生の料理を食器じゃないものに盛ってもらおうと思ったり、モノクロ
で撮った植物や雲のプリントを背景にして、料理だけカラーになるように撮影しようとしたり。撮影前にカメラ
マンと長時間打ち合わせや議論をして、それを先生に伝えたら「さっぱりわかんない」って。

―(笑)。

それでも撮って「こんな感じです」って見せたら、「面白いじゃない!」って言ってくれたりして。その頃はや
りたいことも漠然としていて自分の能力もわかっていなかったけど一生懸命でした。当時の料理写真はシノゴ
(大判カメラ)が主流で、斜め45度から撮るのが適正っていう考え方が普通でした。だけど、私はカメラマンと
話して、「35ミリのフィルムで、自然光で、真上から俯瞰で撮ろう」と。今でこそ見慣れた写真ですけど、当時
はとても新しい試みでした。料理の先生からは、「えぇ、上から!? 盛り付けどうするの!?」って言われたか
ら、きっといい気はしてなかったと思います(笑)。でも、そうやって目指すもののためにはスタイリングもや
ってました。

―若山さんは料理書のデザインをされているイメージもすごくあるんですが、何か興味を持つきっかけがあったんですか?

事務所を始めてから、ありがたいことにいろんなお仕事をいただいて続けていたんですけど、「今のこれが目指すものなのか?」と、ちょっと嫌になってしまって。その前のアシスタント時代の仕事とのギャップがあまりにもあったからかもしれませんが、それで「ちょっと休むね」と30歳のときに半年間仕事を休んで、ニューヨークに行ってたんです。当時は1ドル250円だったから貧乏生活だったけど、1980年代のニューヨークはすごく景気が良くて活気もあって、本屋さんにはプレゼントになるような美しい料理書がとてもいい所にワーっと並んでたんです。でも、日本だと料理の本は実用書として、本屋さんの奥の棚に『○○になる技術書』みたいな本の横に地味に置かれてたりしていて。

―ワクワクしながら読むようなものじゃなかったんですね。

そうそう。何で日本にはそういう料理の本がないんだろう? ニューヨークで見たような本がつくりたい! と思ってたら、帰国した翌日に、「料理の冊子をデザインしませんか?」っていう電話があったんですよ。

―すごいタイミングですね!?

月刊の小さい冊子だったんだけど、それが結局3年続いて。料理の大先生にもたくさん会いに行きました。だけど、私も当時は尖っていて、そういう大先生の料理を食器じゃないものに盛ってもらおうと思ったり、モノクロで撮った植物や雲のプリントを背景にして、料理だけカラーになるように撮影しようとしたり。撮影前にカメラマンと長時間打ち合わせや議論をして、それを先生に伝えたら「さっぱりわかんない」って。

―(笑)。

それでも撮って「こんな感じです」って見せたら、「面白いじゃない!」って言ってくれたりして。その頃はやりたいことも漠然としていて自分の能力もわかっていなかったけど一生懸命でした。当時の料理写真はシノゴ(大判カメラ)が主流で、斜め45度から撮るのが適正っていう考え方が普通でした。だけど、私はカメラマンと話して、「35ミリのフィルムで、自然光で、真上から俯瞰で撮ろう」と。今でこそ見慣れた写真ですけど、当時はとても新しい試みでした。料理の先生からは、「えぇ、上から!? 盛り付けどうするの!?」って言われたから、きっといい気はしてなかったと思います(笑)。でも、そうやって目指すもののためにはスタイリングもやってました。


―現場のどよめきが目に浮かびます(笑)。

『シェーカー・クッキング』という本をつくったときには、「現地のシェーカーも取材したいよね」となって、著
者の方とカメラマンと一緒に、みんな自費で旅したりしました。ニューヨークからメイン州まで車で2週間かけて移
動して、何ヶ所も村を訪ねました。そこでは逆に「35ミリじゃなく、大きいカメラで撮ろう」って私が言い出した
らカメラマンに「意味あるの?」って言われて毎日のように議論しながら撮影したり。すごく思い出深いです。

―こだわってつくるっていうやり方を20代で知ってしまった若山さんが背負った業を感じます(笑)。

でも、今思うと20代前半のあの時間は本当に貴重な体験でした。たぶん、あの事務所にいなかったら自分で何を目
指すのかがもっとぼんやりしてたと思うし、その後の30代の無茶な仕事の経験もなかったと思います。

―正直に言えば、ぬるいデザインの仕事も世の中にはたくさんありますもんね。

そうですね。もうひとつ、その時に教えてもらったことなんですけど、その事務所には貴重な資料がたくさんあっ
て、彼女がつくるものはその中に元ネタがあったんです。若かった自分は「え? オリジナルじゃないの…?」なん
て思っていたんですけど、今考えると彼女のすべての仕事はその元ネタをはるかに超えていたんです。やっぱり三
角形の面積を出すのに一からやってみるよりも、公式を使ってその先の難題に進んだほういいじゃないですか。そ
ういうことなんだなって、後になってから納得しました。

―ただの模倣とはまた別ですよね。

若いころの私は、イメージもぼんやりしてるくせに「オリジナルを!」なんて思っていて。本当におこがましいです
よね。そうやって高いところから、さらに高いところを目指すっていうのを近くで見た経験は、自分の財産になって
いると思います。

―ただ辛いだけに思えた時間も、振り返ると意味があったと。

だから、いつかお会いしたときには「あのときの若山です」って言えたらと思っていたけど、その人は結局亡くなら
れてしまって。それでもあらゆる分野においても絶対に妥協しなかったし、本当にすごい熱量で素晴らしかったと思
います。私はそういう経験をしたから、自分で仕事をするときには相手に寄り添って、それを大切にした上で期待を
裏切るくらいのいいものをつくりたいと思っていました。

―現場のどよめきが目に浮かびます(笑)。

『シェーカー・クッキング』という本をつくったときには、「現地のシェーカーも取材したいよね」となって、著者の方とカメラマンと一緒に、みんな自費で旅したりしました。ニューヨークからメイン州まで車で2週間かけて移動して、何ヶ所も村を訪ねました。そこでは逆に「35ミリじゃなく、大きいカメラで撮ろう」って私が言い出したらカメラマンに「意味あるの?」って言われて毎日のように議論しながら撮影したり。すごく思い出深いです。

―こだわってつくるっていうやり方を20代で知ってしまった若山さんが背負った業を感じます(笑)。

でも、今思うと20代前半のあの時間は本当に貴重な体験でした。たぶん、あの事務所にいなかったら自分で何を目指すのかがもっとぼんやりしてたと思うし、その後の30代の無茶な仕事の経験もなかったと思います。

―正直に言えば、ぬるいデザインの仕事も世の中にはたくさんありますもんね。

そうですね。もうひとつ、その時に教えてもらったことなんですけど、その事務所には貴重な資料がたくさんあって、彼女がつくるものはその中に元ネタがあったんです。若かった自分は「え? オリジナルじゃないの…?」なんて思っていたんですけど、今考えると彼女のすべての仕事はその元ネタをはるかに超えていたんです。やっぱり三角形の面積を出すのに一からやってみるよりも、公式を使ってその先の難題に進んだほういいじゃないですか。そういうことなんだなって、後になってから納得しました。

―ただの模倣とはまた別ですよね。

若いころの私は、イメージもぼんやりしてるくせに「オリジナルを!」なんて思っていて。本当におこがましいですよね。そうやって高いところから、さらに高いところを目指すっていうのを近くで見た経験は、自分の財産になっていると思います。

―ただ辛いだけに思えた時間も、振り返ると意味があったと。

だから、いつかお会いしたときには「あのときの若山です」って言えたらと思っていたけど、その人は結局亡くなられてしまって。それでもあらゆる分野においても絶対に妥協しなかったし、本当にすごい熱量で素晴らしかったと思います。私はそういう経験をしたから、自分で仕事をするときには相手に寄り添って、それを大切にした上で期待を裏切るくらいのいいものをつくりたいと思っていました。


―その優しさは、やっぱり若山さんの個性なんじゃないですか。

突き放したデザインの魅力もあると思うけど、私がするのはちょっと違うと思ってます。やっぱりたくさんの人に
届けたいし、売れなかったらダメですよね。拒否する部分はなくして、ギリギリ受け入れられる美しさに目標を定
めればいいんじゃないかな。それなら見ていて心地良くて、何度見ても飽きないようなものができるかなって。

―やっぱりご自身の感性やルールが明確なんですね。若山さんは。

基本的にいいと思わないものはわからなくていいかなって思ってます。そうしないと良さに気づける日も来ないし、
気づく楽しさもなくなっちゃう。それは恥ずかしいことじゃなくて、わからなくても見ておいて頭の中に残ってい
れば、いつかいいと思う日が来るかもしれない。ちょっとずつ勉強したら問題が解けるような、そういう喜びって
あるじゃないですか。だから、私は何をやっても面白いと思えるんです。

―すごく健全な精神性だなと感じます。ネガティブな話題も多い本や出版の世界にあって、
若山さんの視点や経験はすごく意味があるものだな、って。


本についても私はデジタルと共存できるものだと思っているし、本にしかないものがあるから廃れない気がするん
です。だから、あんまり悲観はしたくない。これからどうしよう…っていう年齢はすでに過ぎちゃったし、仕事が
あるなら一生やっていると思います。私にはこれが天職だと思うし、生涯いちデザイナーでいいかな、って。

―その優しさは、やっぱり若山さんの個性なんじゃないですか。

突き放したデザインの魅力もあると思うけど、私がするのはちょっと違うと思ってます。やっぱりたくさんの人に届けたいし、売れなかったらダメですよね。拒否する部分はなくして、ギリギリ受け入れられる美しさに目標を定めればいいんじゃないかな。それなら見ていて心地良くて、何度見ても飽きないようなものができるかなって。

―やっぱりご自身の感性やルールが明確なんですね。若山さんは。

基本的にいいと思わないものはわからなくていいかなって思ってます。そうしないと良さに気づける日も来ないし、気づく楽しさもなくなっちゃう。それは恥ずかしいことじゃなくて、わからなくても見ておいて頭の中に残っていれば、いつかいいと思う日が来るかもしれない。ちょっとずつ勉強したら問題が解けるような、そういう喜びってあるじゃないですか。だから、私は何をやっても面白いと思えるんです。

―すごく健全な精神性だなと感じます。ネガティブな話題も多い本や出版の世界にあって、若山さんの視点や経験はすごく意味があるものだな、って。

本についても私はデジタルと共存できるものだと思っているし、本にしかないものがあるから廃れない気がするんです。だから、あんまり悲観はしたくない。これからどうしよう…っていう年齢はすでに過ぎちゃったし、仕事があるなら一生やっていると思います。私にはこれが天職だと思うし、生涯いちデザイナーでいいかな、って。














若山嘉代子|わかやまかよこ
エディトリアルデザイナー

1953年生まれ、岐阜県出身。印刷業を営む両親のもとで育つ中でブックデザインを志すようになる。武蔵
野美術大学を卒業後、デザイン事務所での経験を経て、27歳で大学時代からの友人だった縄田智子ととも
にレスパースを設立。以降は数々の書籍やエッセイ、雑誌のデザインを担当し、パッケージやカタログな
どの印刷物も手掛けている。余暇にはきもので茶道や歌舞伎を楽しみ、今も新しい分野への興味や関心は
尽きない。



着用アイテム : A4778 NO4 ¥50,600 / L03530FC127 NO2 ¥231,000

若山嘉代子|わかやまかよこ
エディトリアルデザイナー

1953年生まれ、岐阜県出身。印刷業を営む両親のもとで育つ中でブックデザインを志すようになる。武蔵野美術大学を卒業後、デザイン事務所での経験を経て、27歳で大学時代からの友人だった縄田智子とともにレスパースを設立。以降は数々の書籍やエッセイ、雑誌のデザインを担当し、パッケージやカタログなどの印刷物も手掛けている。余暇にはきもので茶道や歌舞伎を楽しみ、今も新しい分野への興味や関心は尽きない。



着用アイテム : A4778 NO4 ¥50,600 / L03530FC127 NO2 ¥231,000