Finest Fit Guide – 内田斉 / HITOSHI UCHIDA
December 12th,2025

「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット?色合わせ?それとも素材感?どれもきっと間違いじゃない
けれど、決定的なのはたぶん、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきり
と映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェア
がよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はモデルのダイスケさんの場合。
Photograph_Go Tanabe
Text & Edit_Rui Konno
「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット?色合わせ?それとも素材感?どれもきっと間違いじゃないけれど、決定的なのはたぶん、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきりと映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェアがよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はモデルのダイスケさんの場合。
Photograph_Go Tanabe
Text & Edit_Rui Konno
“「俺はこんなことしに東京に
出てきたんじゃないんだよ ! 」って”
“「俺はこんなことしに東京に出てきたんじゃないんだよ ! 」って”

―時間を割いてくださってありがとうございます!ダイスケさん、帰国直後なんですよね?
はい。少し前にデンマークから帰ってきました。それこそ今日も着てるスメドレーのニットを着て行ったんで
すけど、本当に軽くて良かったです。俺、飛行機に乗るとき荷物を預けないからめちゃくちゃ助かるんですよ
―預け入れをされないのには理由があるんですか?
時間をとにかく短くしたいんです。荷物を預ける人は2時間前に空港に行かなきゃいけないし、受け取りも空港
で待つじゃないですか。年間のフライト数を考えたら、これを全部我慢してたらすごい時間のロスになるなと思
って。それでキャリーオンで持って行けるラゲージに全部詰め込んでいくから、どうしても重くなるんです。だ
から、軽くてサクッと着られるこういうニットがあるといいなって。
―今、ダイスケさんは年間どれくらい海外に行かれてるんですか?
どうだろうなぁ…。この前の10月とかだと、結局5日くらいしか東京にいなかったり。そんな感じです。
―それこそ世界で活躍するモデルさんのライフサイクルそのものですよね。ダイスケさんと仕事で初めて
お会いしたのが15年くらい前だったと思うんですが、今はモデル業を始めてどれくらい経ったんですか?
始めたのが23歳なんで、17年経ったのかな。それで、(所属エージェンシーの)ドンナはこの前で30周年。すご
いですよね。一個のエージェンシーがハイファッションの道を崩さずにがんばってそれをやってるっていうのが。
―モデルさんは移籍も珍しくない中で、ダイスケさんはずっとドンナ所属ですよね。
それに、出会ったときからダイスケさんはすでにアップカミングな存在で。
そのころはちょうど流れに乗り始めたときですね。最初のミラノ(ファッションウィーク)に行ったときにうま
く3本くらいショーに出られたのかな。そこからって感じです。最初の3年間はまったく仕事がなかったんで。バ
イトを3つやって、そこで貯めたお金でパリ・ミラノに挑戦して、その1回目のシーズンでダメだったらもう実家
に帰るって両親と約束してたんです。
―そうだったんですね。出会ってからも活躍をされていましたし、最初から
順風満帆だったのかと思っていました。
いやいや!最初は本当に小さな仕事が少しあるだけでしたよ。自分が雑誌の裁ち落としになれるようなことなん
てもちろんなくて、通販のカタログにちょっと載るとか、そのくらいでした。それでも、その撮影が沖縄ロケで
「すごいな…!モデルの仕事は出張で沖縄に行けるんだ…」って。
―微笑ましいですね(笑)。
でも、それは僕の先輩のモデルさんも一緒の撮影だったんですけど、いざ沖縄に行ってみたらその先輩はすごく
信頼されていて、その人が主演で俺は背中しか映らないみたいな、そんな状況でした。俺は「なんだよ…!」っ
て気持ちで。「でも、ダイスケくんひとりのカットもあるから」って言われて着せられた服も甚平で、背中に龍
が舞ってたんですよ(笑)。
―時間を割いてくださってありがとうございます!ダイスケさん、帰国直後なんですよね?
はい。少し前にデンマークから帰ってきました。それこそ今日も着てるスメドレーのニットを着て行ったんですけど、本当に軽くて良かったです。俺、飛行機に乗るとき荷物を預けないからめちゃくちゃ助かるんですよ。
―預け入れをされないのには理由があるんですか?
時間をとにかく短くしたいんです。荷物を預ける人は2時間前に空港に行かなきゃいけないし、受け取りも空港で待つじゃないですか。年間のフライト数を考えたら、これを全部我慢してたらすごい時間のロスになるなと思って。それでキャリーオンで持って行けるラゲージに全部詰め込んでいくから、どうしても重くなるんです。だから、軽くてサクッと着られるこういうニットがあるといいなって。
―今、ダイスケさんは年間どれくらい海外に行かれてるんですか?
どうだろうなぁ…。この前の10月とかだと、結局5日くらいしか東京にいなかったり。そんな感じです。
―それこそ世界で活躍するモデルさんのライフサイクルそのものですよね。ダイスケさんと仕事で初めてお会いしたのが15年くらい前だったと思うんですが、今はモデル業を始めてどれくらい経ったんですか?
始めたのが23歳なんで、17年経ったのかな。それで、(所属エージェンシーの)ドンナはこの前で30周年。すごいですよね。一個のエージェンシーがハイファッションの道を崩さずにがんばってそれをやってるっていうのが。
―モデルさんは移籍も珍しくない中で、ダイスケさんはずっとドンナ所属ですよね。それに、出会ったときからダイスケさんはすでにアップカミングな存在で。
そのころはちょうど流れに乗り始めたときですね。最初のミラノ(ファッションウィーク)に行ったときにうまく3本くらいショーに出られたのかな。そこからって感じです。最初の3年間はまったく仕事がなかったんで。バイトを3つやって、そこで貯めたお金でパリ・ミラノに挑戦して、その1回目のシーズンでダメだったらもう実家に帰るって両親と約束してたんです。
―そうだったんですね。出会ってからも活躍をされていましたし、最初から順風満帆だったのかと思っていました。
いやいや!最初は本当に小さな仕事が少しあるだけでしたよ。自分が雑誌の裁ち落としになれるようなことなんてもちろんなくて、通販のカタログにちょっと載るとか、そのくらいでした。それでも、その撮影が沖縄ロケで「すごいな…!モデルの仕事は出張で沖縄に行けるんだ…」って。
―微笑ましいですね(笑)。
でも、それは僕の先輩のモデルさんも一緒の撮影だったんですけど、いざ沖縄に行ってみたらその先輩はすごく信頼されていて、その人が主演で俺は背中しか映らないみたいな、そんな状況でした。俺は「なんだよ…!」って気持ちで。「でも、ダイスケくんひとりのカットもあるから」って言われて着せられた服も甚平で、背中に龍が舞ってたんですよ(笑)。

―なかなか濃いですね(笑)。
ドンナで昔からずっと俺のマネージメントをやってくれているJ(善林順子)さんっていう人がいるんで
すけど、当時は俺もまだ若かったんで撮影が終わってからJさんに「俺はこんなことしに東京に出てきた
んじゃないんだよ! 誰かの後ろで黒子や影になったり、龍とか虎が付いた服着て写真に映るためじゃな
い!」って。
―もちろんそういう現場で頑張ってる方もいるでしょうけど、ダイスケさんが
志したモデル像とはかけ離れていたんでしょうね…。
Jさんも「せっかくもらえた仕事にそんなことを言うなんて!」みたいな感じでした。でも、「いや、す
ごく失礼なことを言ってるのはわかってます。Jさんが頑張って取ってくれた仕事だっていうことも。だ
けどこれから先、やっぱりどういう内容なのかは俺に確認してほしいです」って。ほかにも、雑誌の撮
影で気合を入れて現場に行ったらみんなユルくて、そんな気持ちで臨んでるのが俺だけだったりとかっ
てこともあって。「なんだこれ…」って。
―なかなか濃いですね(笑)。
ドンナで昔からずっと俺のマネージメントをやってくれているJ(善林順子)さんっていう人がいるんですけど、当時は俺もまだ若かったんで撮影が終わってからJさんに「俺はこんなことしに東京に出てきたんじゃないんだよ! 誰かの後ろで黒子や影になったり、龍とか虎が付いた服着て写真に映るためじゃない!」って。
―もちろんそういう現場で頑張ってる方もいるでしょうけど、ダイスケさんが志したモデル像とはかけ離れていたんでしょうね…。
Jさんも「せっかくもらえた仕事にそんなことを言うなんて!」みたいな感じでした。でも、「いや、すごく失礼なことを言ってるのはわかってます。Jさんが頑張って取ってくれた仕事だっていうことも。だけどこれから先、やっぱりどういう内容なのかは俺に確認してほしいです」って。ほかにも、雑誌の撮影で気合を入れて現場に行ったらみんなユルくて、そんな気持ちで臨んでるのが俺だけだったりとかってこともあって。「なんだこれ…」って。

―弱小部でひとりだけ熱いやつみたいな状況ですね…。
本当に『スラムダンク』の赤木みたいでしたね(笑)。そういう話をちゃんとしていって、ちょっとずつJさん
たちとの関係を構築できたんですけど、最初のころはそういうのをすごく味わって。それを続けてたら、きっ
と俺自身の心が折れちゃうなと思ったんです。それで、しばらくは3つ掛け持ちしたバイトをメインにしながら
やってました。そのひとつがさっき撮影中に行ったオリジン弁当だったんですけど、そこの社員さんにも「『モ
デルで活躍したい』とか夢みたいなことばっか言ってないで早く辞めたら?」って言われたり。
―だいぶ辛辣な…。ダイスケさんに「思い出の多い場所で撮影を」とリクエストして、学芸大学の
このエリアを指定されたのはそのころを思い出してのことだったんですね。
そうですね。でも、俺はその経験は良かったと思ってます。ああいうふうに言われると、燃えるタイプだったんで。
それに、別のおばちゃんとかはすごく優しくて、俺がバイトを辞めるときにも泣いてくれてました。結局そのバイ
トは3年やって、あとは祐天寺のバルデセブンティセブンっていう古着屋と、恵比寿のガーデンプレイスにあった
会員制のフィットネスクラブみたいなところでバイトしてました。一時期は道玄坂の上にあったカフェでもバイト
してたなぁ。
―どれだけがむしゃらな下積み時代だったかが伝わってきました(笑)。でも、そもそもダイスケさんは
どうやってモデルを志すようになったんですか?
俺が小学校6年くらいのころにお姉ちゃんがイギリスに留学してたんですけど、帰ってくるなり「これ、読みなさ
い」って『ヴォーグ』とか『ヌメロ』とか、買ってきた雑誌を渡してきたんですよ。それまで『コロコロコミック』
とか読んでた俺に(笑)。
―緩急がすごい。
で、読んでみると最初のほうに広告のページが入ってるじゃないですか?それを見て格好いいなと思ったのが最初
だと思います。そのころも『ブーン』だとか『スマート』とかはちょっと見たことがあったけど、そういうものと
も全然違う写真だなって。それで、自分でもそういうファッション誌をちょくちょく読むようになって、確か高校
3年か大学に入るくらいのときかな。エディ・スリマンさんが撮ったディオール(オム)のキャンペーンの写真を
目にして、そこに出てたラーズ・スウェンソンっていうモデルさんを見た瞬間に「うわ!格好いい…!なんだ、
この人は!?」と気になって。
―あ、あのモデルさんですね。覚えてます。素敵でしたよね。
彼はミュージシャンでもあるんですよね。それで調べたら、ラーズさんを招聘してたのがドンナだったんです。そ
れで、モデルを志して東京に行くなら、最初に受けるエージェンシーはドンナだって自分の中で決めてたんです。
―じゃあ、早いうちからモデル志望だったんですね。
いや、それがそうでもなくて。俺は大学が岡山だったんですけど、精神保健福祉学科っていう学科にいて、精神に
疾患を持った人を社会に復帰させる職業とかに就く予定だったんです。それで、3年生になって普通に就活してま
した。ただ、その岡山時代に(この日の撮影も行ったフォトグラファーの田邊)剛さんとスタイリストの二村(毅)
さんが『メンズノンノ』のスナップ企画で岡山に来ていて、俺の友だちにも洋服が好きなやつがいたんで、「行っ
てみる?」となって参加したんです。二村さんはイケイケで、「え!この子誰なの?モデル?」とかって俺、言わ
れて。「いや、モデルじゃないです」って言いながら内心、「この人は誰なんだろう…?」って(笑)。でも、剛
さんが、「この人は東京でショーとかも色々やってるスタイリストさんで…」と教えてくれて。二村さんも「東京、
来なよ!」って。
―たじろぎますよね、いきなりだと(笑)。
でも、ジョークかもしれないけど、そういうのって心に残るじゃないですか。それで、今度は大学3年の冬くらいに
病院のインターンで2ヶ月くらい地元の福岡に帰ってたときに、街を歩いてたら(デザイナーの)久保嘉男さんに突
然スカウトされたんですよ。「今日の夜、自分のブランドのショーがあるからそこに出てくれ!」って。
―またしても急展開ですね。なんて答えられたんですか?
「いや、大丈夫です」って(笑)。モデルなんてやったこともないし、ましてやショーなんて勘弁してくださいって
感じで。それでお断りして、いつも行ってたセレクトショップに行ったら、また久保さんが入ってきたんですよ。そ
このお店がヨシオクボを取り扱ってたんですよね。そしたら久保さんも気づいて、店長に「さっきこの子に『ショー
に出てほしい』って頼んだら断られちゃったよ」って言うんです(笑)。
―弱小部でひとりだけ熱いやつみたいな状況ですね…。
本当に『スラムダンク』の赤木みたいでしたね(笑)。そういう話をちゃんとしていって、ちょっとずつJさんたちとの関係を構築できたんですけど、最初のころはそういうのをすごく味わって。それを続けてたら、きっと俺自身の心が折れちゃうなと思ったんです。それで、しばらくは3つ掛け持ちしたバイトをメインにしながらやってました。そのひとつがさっき撮影中に行ったオリジン弁当だったんですけど、そこの社員さんにも「『モデルで活躍したい』とか夢みたいなことばっか言ってないで早く辞めたら?」って言われたり。
―だいぶ辛辣な…。ダイスケさんに「思い出の多い場所で撮影を」とリクエストして、学芸大学のこのエリアを指定されたのはそのころを思い出してのことだったんですね。
そうですね。でも、俺はその経験は良かったと思ってます。ああいうふうに言われると、燃えるタイプだったんで。それに、別のおばちゃんとかはすごく優しくて、俺がバイトを辞めるときにも泣いてくれてました。結局そのバイトは3年やって、あとは祐天寺のバルデセブンティセブンっていう古着屋と、恵比寿のガーデンプレイスにあった会員制のフィットネスクラブみたいなところでバイトしてました。一時期は道玄坂の上にあったカフェでもバイトしてたなぁ。
―どれだけがむしゃらな下積み時代だったかが伝わってきました(笑)。でも、そもそもダイスケさんはどうやってモデルを志すようになったんですか?
俺が小学校6年くらいのころにお姉ちゃんがイギリスに留学してたんですけど、帰ってくるなり「これ、読みなさい」って『ヴォーグ』とか『ヌメロ』とか、買ってきた雑誌を渡してきたんですよ。それまで『コロコロコミック』とか読んでた俺に(笑)。
―緩急がすごい。
で、読んでみると最初のほうに広告のページが入ってるじゃないですか?それを見て格好いいなと思ったのが最初だと思います。そのころも『ブーン』だとか『スマート』とかはちょっと見たことがあったけど、そういうものとも全然違う写真だなって。それで、自分でもそういうファッション誌をちょくちょく読むようになって、確か高校3年か大学に入るくらいのときかな。エディ・スリマンさんが撮ったディオール(オム)のキャンペーンの写真を目にして、そこに出てたラーズ・スウェンソンっていうモデルさんを見た瞬間に「うわ!格好いい…!なんだ、この人は!?」と気になって。
―あ、あのモデルさんですね。覚えてます。素敵でしたよね。
彼はミュージシャンでもあるんですよね。それで調べたら、ラーズさんを招聘してたのがドンナだったんです。それで、モデルを志して東京に行くなら、最初に受けるエージェンシーはドンナだって自分の中で決めてたんです。
―じゃあ、早いうちからモデル志望だったんですね。
いや、それがそうでもなくて。俺は大学が岡山だったんですけど、精神保健福祉学科っていう学科にいて、精神に疾患を持った人を社会に復帰させる職業とかに就く予定だったんです。それで、3年生になって普通に就活してました。ただ、その岡山時代に(この日の撮影も行ったフォトグラファーの田邊)剛さんとスタイリストの二村(毅)さんが『メンズノンノ』のスナップ企画で岡山に来ていて、俺の友だちにも洋服が好きなやつがいたんで、「行ってみる?」となって参加したんです。二村さんはイケイケで、「え!この子誰なの?モデル?」とかって俺、言われて。「いや、モデルじゃないです」って言いながら内心、「この人は誰なんだろう…?」って(笑)。でも、剛さんが、「この人は東京でショーとかも色々やってるスタイリストさんで…」と教えてくれて。二村さんも「東京、来なよ!」って。
―たじろぎますよね、いきなりだと(笑)。
でも、ジョークかもしれないけど、そういうのって心に残るじゃないですか。それで、今度は大学3年の冬くらいに病院のインターンで2ヶ月くらい地元の福岡に帰ってたときに、街を歩いてたら(デザイナーの)久保嘉男さんに突然スカウトされたんですよ。「今日の夜、自分のブランドのショーがあるからそこに出てくれ!」って。
―またしても急展開ですね。なんて答えられたんですか?
「いや、大丈夫です」って(笑)。モデルなんてやったこともないし、ましてやショーなんて勘弁してくださいって感じで。それでお断りして、いつも行ってたセレクトショップに行ったら、また久保さんが入ってきたんですよ。そこのお店がヨシオクボを取り扱ってたんですよね。そしたら久保さんも気づいて、店長に「さっきこの子に『ショーに出てほしい』って頼んだら断られちゃったよ」って言うんです(笑)。

―外堀が埋まりましたね。
このふたり、仲良かったのか…って。店長さんは僕のことをいつも上田って呼ぶんですけど、「おい上田!今日
のショーに出たら商品、30%とか40%オフとかで買わせてやるぞ」って。もう俺は「マジっすか…」って感じで
した。「本当に大丈夫なんですか?何もわかんないですよ?」って。だけど、結局出たら久保さんはファースト
(ルック)に俺を選んでくれて。ランウェイも短いし、大きいショーではなかったけど、東京から来たモデルさ
んと並んだときに、あれ…もしかして俺でもいけるのかも?と思っちゃったんです。それで4年になって、ゼミ
の先生に「実習行ったりいろいろさせてもらったんですけど、俺、卒業したら東京に行くかもしれません」って。
―本当にいろんな出会いがあったんですね。
そうだと思います。偶然というか、チャンスをもらえたなって。だけどチャンスって勇気がいるじゃないですか。
俺の実家は福岡でも豊前市っていう人口2万人ちょっとの田舎なんで、まずファッションっていうものがほとんど
なかったし。それに言い方が悪いですけど、ちょっとうさんくさいじゃないですか?
田邊 剛(以下田邊):…あ、我々がね?(笑)
はい(笑)。ファッションフォトグラファーとかスタイリストとかヘアメイクとか、田舎の俺たちからしたらわ
けわかんないし、そんなんで本当に飯が食えるわけがないって思ってました。汗水かかないで稼げる仕事なんて
…って。でも、いざ振り返ってみるとこの仕事も相当汗水かくんですよね(笑)。
―そうですね。ハードな仕事だと思います。でも、当時のドンナには日本人モデルって
いませんでしたよね?
そう。ゼロだったんですよ。それでも履歴書を送って面接を受けに行ったんですけど、実際に会ったら「ダイス
ケくん、運転は得意?東京は道が難しいからね」みたいな話になって。
―どういう意図の質問だったんですかね?
それで、「え?俺、まだ車とか持ってないです」って言ったら「マネージャーはモデルを乗せて東京の道を運転
しないといけないからさ」って言われて。「いやいや、違います!俺、ここでモデルになりたいんですよ!」っ
て(笑)。
―ひどい話ですね。
そしたらJさんも、「えっ!? いやぁ、うちは日本人のモデルはちょっと…」って。だけど社長が「モデル
になりたいなら、ちょっと廊下歩いてみなさい」と言ってくれて、まだ何もわからないけどとりあえず歩いて、
「どうでした!?」と聞いたら「全然ダメ」って言われて。
―そりゃそうなりますよね。
「結果は手紙か電話で連絡するので」と言われたから、「え!じゃあ電話でくれませんか?」って言ったんですよ。
「?じゃあ、そうするわ」って社長の言葉が俺はすごい嬉しくて。「電話で嫌な話する人、あんまりいないと思う
んで!」って。俺、家も決めずにその前日とかに新幹線で出てきてたから、最初の2週間くらいは渋谷の漫画喫茶に
寝泊まりしてたんですけど、ドンナの渋谷の事務所を出たらパルコの近くを歩いてるくらいでもう携帯が鳴りまし
た。社長が「もういいわ。あなたとやってみる」って。
―すごい売り込み方から始まったんですね(笑)。そこからミラノで日の目を見るまでにも
辛酸を舐めていたと…。
田邊:でも、俺はダイスケは海外でトライするよりも前、N.ハリ(ウッド)で全員日本人のショーをやったときに
出てたイメージが強いんだよね。
そうですね。N.ハリはパリ・ミラノに初めて行く前だったんで、そこで結構自信がつきました。当時の東コレだと
ジョンローレンスサリバンに俺は出たかったんです。あのショーが一番、海外のトップでやってるモデルたちを使
ってたから。それまでもオーディションには呼んでもらえるけど、着替えまではいけないっていうのを何度も味わ
ってたんですけど、あのショーをやってた(スタイリストの坂元)真澄さんはのちに俺をフェノメノンのショーで
使ってくれて。
―その経験で、最初のパリ・ミラノに挑んだと。
はい。ミラノで最初に出られたのはコスチュームナショナルとエンポリオ アルマーニ、あとはトム・ブラウンさん
が就任したときのモンクレールでした。
―ガム・ブルーですね。
そうです。それはプレゼンテーションに近いショーだったんですけど、それを祐真(朋樹)さんが観に来られてい
て、近くにいたんで「祐真さん!こんにちは!」と挨拶をしたら、「え?日本人?」みたいになって。「そうなん
です!ダイスケです。ドンナに所属してます」とかって話したら、「じゃあ、日本に帰ったら一緒に撮影やろうよ」
と言ってくれて。それで戻って何日かしたら本当にオファーをもらって。確か『センス』で、フォトグラファーは秦
(淳司)さんでした。俺が雑誌の裁ち落としで、8ページくらいのボリュームでルック全部をやらせてもらったのは
あれが初めてだったと思います。
―こうやって聞いていても、そのころから急速に周りの注目が集まり始めたのを感じます。
そうですね。で、そこからもうすぐにニューヨークへ行きました。まずは事務所を決めに、ESTAを取って。
―それも見ていましたけど、人気の最中に新天地を志されたのがすごいなぁと思っていました。
日本での撮影のオファーも以前よりはたくさん入ってきていましたけど、今、勢いがあるときにニューヨークの事務
所とも契約して、もっと高みに挑戦したいなと思いました。当時は英語もしゃべれなかったけど、ドンナのときみた
いに行きたい事務所には目星をつけてたんです。それで一度日本に戻って、ビザ待ちの間にまた韓国、シンガポール
に行ったりして。今は自分の宣材写真だけなんですけど、そのときはまだオーディションでブック(宣材として持ち
込む、過去の仕事のビジュアルなどをまとめた本)を見せてたんですよ。だけど、そのブックが明らかに弱いなと感
じていて。ファーストシーズンでミラノに出られたのもラッキーというか、うまく当てられただけだったと思うから。
それで、次に行くときにはちゃんといい写真をつくって、名刺がわりのコンポジ(ブックから抜粋した写真などをま
とめたカード)も先シーズンとは違うものにしないといけないなって。それでニューヨークに行って、合間に日本の
撮影もしていたらあっという間に半年経って、またファッションウィークに…みたいなことを3年間くらいずっと繰
り返してました。
―外堀が埋まりましたね。
このふたり、仲良かったのか…って。店長さんは僕のことをいつも上田って呼ぶんですけど、「おい上田!今日のショーに出たら商品、30%とか40%オフとかで買わせてやるぞ」って。もう俺は「マジっすか…」って感じでした。「本当に大丈夫なんですか?何もわかんないですよ?」って。だけど、結局出たら久保さんはファースト(ルック)に俺を選んでくれて。ランウェイも短いし、大きいショーではなかったけど、東京から来たモデルさんと並んだときに、あれ…もしかして俺でもいけるのかも?と思っちゃったんです。それで4年になって、ゼミの先生に「実習行ったりいろいろさせてもらったんですけど、俺、卒業したら東京に行くかもしれません」って。
―本当にいろんな出会いがあったんですね。
そうだと思います。偶然というか、チャンスをもらえたなって。だけどチャンスって勇気がいるじゃないですか。俺の実家は福岡でも豊前市っていう人口2万人ちょっとの田舎なんで、まずファッションっていうものがほとんどなかったし。それに言い方が悪いですけど、ちょっとうさんくさいじゃないですか?
田邊 剛(以下田邊):…あ、我々がね?(笑)
はい(笑)。ファッションフォトグラファーとかスタイリストとかヘアメイクとか、田舎の俺たちからしたらわけわかんないし、そんなんで本当に飯が食えるわけがないって思ってました。汗水かかないで稼げる仕事なんて…って。でも、いざ振り返ってみるとこの仕事も相当汗水かくんですよね(笑)。
―そうですね。ハードな仕事だと思います。でも、当時のドンナには日本人モデルっていませんでしたよね?
そう。ゼロだったんですよ。それでも履歴書を送って面接を受けに行ったんですけど、実際に会ったら「ダイスケくん、運転は得意?東京は道が難しいからね」みたいな話になって。
―どういう意図の質問だったんですかね?
それで、「え?俺、まだ車とか持ってないです」って言ったら「マネージャーはモデルを乗せて東京の道を運転しないといけないからさ」って言われて。「いやいや、違います!俺、ここでモデルになりたいんですよ!」って(笑)。
―ひどい話ですね。
そしたらJさんも、「えっ!? いやぁ、うちは日本人のモデルはちょっと…」って。だけど社長が「モデルになりたいなら、ちょっと廊下歩いてみなさい」と言ってくれて、まだ何もわからないけどとりあえず歩いて、「どうでした!?」と聞いたら「全然ダメ」って言われて。
―そりゃそうなりますよね。
「結果は手紙か電話で連絡するので」と言われたから、「え!じゃあ電話でくれませんか?」って言ったんですよ。「?じゃあ、そうするわ」って社長の言葉が俺はすごい嬉しくて。「電話で嫌な話する人、あんまりいないと思うんで!」って。俺、家も決めずにその前日とかに新幹線で出てきてたから、最初の2週間くらいは渋谷の漫画喫茶に寝泊まりしてたんですけど、ドンナの渋谷の事務所を出たらパルコの近くを歩いてるくらいでもう携帯が鳴りました。社長が「もういいわ。あなたとやってみる」って。
―すごい売り込み方から始まったんですね(笑)。そこからミラノで日の目を見るまでにも辛酸を舐めていたと…。
田邊:でも、俺はダイスケは海外でトライするよりも前、N.ハリ(ウッド)で全員日本人のショーをやったときに出てたイメージが強いんだよね。
そうですね。N.ハリはパリ・ミラノに初めて行く前だったんで、そこで結構自信がつきました。当時の東コレだとジョンローレンスサリバンに俺は出たかったんです。あのショーが一番、海外のトップでやってるモデルたちを使ってたから。それまでもオーディションには呼んでもらえるけど、着替えまではいけないっていうのを何度も味わってたんですけど、あのショーをやってた(スタイリストの坂元)真澄さんはのちに俺をフェノメノンのショーで使ってくれて。
―その経験で、最初のパリ・ミラノに挑んだと。
はい。ミラノで最初に出られたのはコスチュームナショナルとエンポリオ アルマーニ、あとはトム・ブラウンさんが就任したときのモンクレールでした。
―ガム・ブルーですね。
そうです。それはプレゼンテーションに近いショーだったんですけど、それを祐真(朋樹)さんが観に来られていて、近くにいたんで「祐真さん!こんにちは!」と挨拶をしたら、「え?日本人?」みたいになって。「そうなんです!ダイスケです。ドンナに所属してます」とかって話したら、「じゃあ、日本に帰ったら一緒に撮影やろうよ」と言ってくれて。それで戻って何日かしたら本当にオファーをもらって。確か『センス』で、フォトグラファーは秦(淳司)さんでした。俺が雑誌の裁ち落としで、8ページくらいのボリュームでルック全部をやらせてもらったのはあれが初めてだったと思います。
―こうやって聞いていても、そのころから急速に周りの注目が集まり始めたのを感じます。
そうですね。で、そこからもうすぐにニューヨークへ行きました。まずは事務所を決めに、ESTAを取って。
―それも見ていましたけど、人気の最中に新天地を志されたのがすごいなぁと思っていました。
日本での撮影のオファーも以前よりはたくさん入ってきていましたけど、今、勢いがあるときにニューヨークの事務所とも契約して、もっと高みに挑戦したいなと思いました。当時は英語もしゃべれなかったけど、ドンナのときみたいに行きたい事務所には目星をつけてたんです。それで一度日本に戻って、ビザ待ちの間にまた韓国、シンガポールに行ったりして。今は自分の宣材写真だけなんですけど、そのときはまだオーディションでブック(宣材として持ち込む、過去の仕事のビジュアルなどをまとめた本)を見せてたんですよ。だけど、そのブックが明らかに弱いなと感じていて。ファーストシーズンでミラノに出られたのもラッキーというか、うまく当てられただけだったと思うから。それで、次に行くときにはちゃんといい写真をつくって、名刺がわりのコンポジ(ブックから抜粋した写真などをまとめたカード)も先シーズンとは違うものにしないといけないなって。それでニューヨークに行って、合間に日本の撮影もしていたらあっという間に半年経って、またファッションウィークに…みたいなことを3年間くらいずっと繰り返してました。
“実は俺、一度モデルを辞めてるんです”


―でも、ニューヨーク行きを決めた理由はなんだったんですか?
大きいキャンペーンの仕事を取りたかったんで、それを志すなら絶対にニューヨークに行かなきゃいけなかった
んですよ。キャンペーンを撮られてるようなフォトグラファーさんってほとんどの方がニューヨークの事務所に
所属されているって気づいてたんです。パリ・ミラノでオプション(仮押さえ)が入ることもあるだろうけど、
スタジオがアメリカになることもあるだろうから、やっぱりニューヨークだなと。
―それで事務所も事前に調べていたと。
はい。ニューヨークモデルズっていうところに入りたくて。あともう少し候補があったんですけど、着いて一番
最初の朝11時にアポを取ったのがそこで、すごい気に入ってくれてその場で決まったんです。
田邊:すごい。ドンナのときとえらい違いだね。
マネージャー志望だと思われてましたからね(笑)。その後、ニューヨークモデルズの良くしてくれてた人たちは
IMGっていう事務所に引き抜かれて、さらに去年またその人たちがジャグモデルズっていうエージェンシーに移っ
たんで、俺もジャグモデルズとの契約にサインして、今はちょうどビザの申請中です。また新しいところに移って、
それでうまくいくかはわからないし、仕事がまったくない可能性もあるけど、俺はお金を稼がせてくれよというよ
りも感謝の気持ちが強くて。英語もしゃべれなかったゼロの俺をずっと面倒見てくれてた人たちだから、今度は
俺が返せたらなって。今はアジア人が俺ひとりだけなんですけど、俺をきっかけに他のアジアのモデルさんにも興
味を持ってもらえたらいいなと思って入りました。
―ダイスケさんはお仕事の受け方でも身の振り方でも、昔からそうやって人との関係値を
すごく大事にされてますよね。
ニューヨークモデルズを辞めてIMGに映るときにも5個ぐらいのエージェンシーからお話があって、一応は全部に話
を聞きに行ったんですよ。今まで自分から行こうとしたことはあっても、自分を欲しがってもらえたことがなかっ
たから。それで本当に悩んだけど、やっぱりIMGにしたのもその人たちがいたからですね。最後に決めたときも、こ
れで失敗してもそれでいいと思えたから。大きな会社で本当に仕事がもらえていない人もいるだろうし、怖かった
ですけどね。
―ニューヨークには、結局何年いらっしゃったんですか?
コロナのタイミングで日本に帰ってきたんですけど、7年いましたね。ただ、実は俺、27歳で一度モデルを辞めてる
んですよ。
―それも知っていました。モデルに区切りをつけて、役者として…というお話を人づてに聞いていて。
かなり驚きました。
そう、2年間芸能事務所に入ったんです。それで最初は半年間、俳優さんの付き人をやってたんですけど、いざ自分の
ターンとなったら若干、燃え尽き症候群のようになっちゃって。パワーが出ないというか。
―モデル業のようにはいかなかったんですね。
なんて言うか…役者の世界はやっぱり、モデルとはまったく違うものでした。ちょうど同じ頃にでっくん(東出昌大さ
ん)が『桐島(、部活やめるってよ)』で演技のほうに行って、(中島)歩くんも同じころにトライして。歩くんは当
時、俳優として苦労していて、それでも舞台のほうで頑張ったりしていました。彼とは仲が良かったから一緒にお茶に
行ったりして話したりするんですけど、やっぱり話を聞いていると俺は演技のほうに彼らみたいな情熱を持ててなかっ
たんですよね。これで飯を食っていくんだ!みたいな気持ちに、俺はなれなくて。それがなんでなんだろうってずっ
と自問自答してました。
―すごく売れていた全盛期にモデルから俳優へ転向されたのは、やっぱりモデルの年齢的な
限界を考えての判断だったんですか?
まさにそうです。自分が勝手に洗脳されてたのもあって。やっぱり「メンズでモデルは長くはやれない」って、いつも
耳には入ってきてたから。
―ダイスケさんは25歳のときからそう言ってましたよね。モデルとしてすごくいい時期なのに、
どこか焦っているように思えて不思議でした。
でも、その芸能事務所は人数こそ少ないけど、演技を本気でやりたい人たちにとっては死ぬほど入りたいようなところ
だったんです。そんなところの社長さんが「一緒にやりたい」って言ってくれたんですよ。そんなチャンス、たぶんも
うないじゃないですか。それで会いに行ってご飯を食べながら話を聞いたら、「モデルをやりながらとかはナシだ」っ
て言われて。区切りをつけろ、のめり込めと。本気で目指すなら当然のことだよなと思ってそれに従ったんです。
―でも、ニューヨーク行きを決めた理由はなんだったんですか?
大きいキャンペーンの仕事を取りたかったんで、それを志すなら絶対にニューヨークに行かなきゃいけなかったんですよ。キャンペーンを撮られてるようなフォトグラファーさんってほとんどの方がニューヨークの事務所に所属されているって気づいてたんです。パリ・ミラノでオプション(仮押さえ)が入ることもあるだろうけど、スタジオがアメリカになることもあるだろうから、やっぱりニューヨークだなと。
―それで事務所も事前に調べていたと。
はい。ニューヨークモデルズっていうところに入りたくて。あともう少し候補があったんですけど、着いて一番最初の朝11時にアポを取ったのがそこで、すごい気に入ってくれてその場で決まったんです。
田邊:すごい。ドンナのときとえらい違いだね。
マネージャー志望だと思われてましたからね(笑)。その後、ニューヨークモデルズの良くしてくれてた人たちはIMGっていう事務所に引き抜かれて、さらに去年またその人たちがジャグモデルズっていうエージェンシーに移ったんで、俺もジャグモデルズとの契約にサインして、今はちょうどビザの申請中です。また新しいところに移って、それでうまくいくかはわからないし、仕事がまったくない可能性もあるけど、俺はお金を稼がせてくれよというよりも感謝の気持ちが強くて。英語もしゃべれなかったゼロの俺をずっと面倒見てくれてた人たちだから、今度は俺が返せたらなって。今はアジア人が俺ひとりだけなんですけど、俺をきっかけに他のアジアのモデルさんにも興味を持ってもらえたらいいなと思って入りました。
―ダイスケさんはお仕事の受け方でも身の振り方でも、昔からそうやって人との関係値を
すごく大事にされてますよね。
ニューヨークモデルズを辞めてIMGに映るときにも5個ぐらいのエージェンシーからお話があって、一応は全部に話を聞きに行ったんですよ。今まで自分から行こうとしたことはあっても、自分を欲しがってもらえたことがなかったから。それで本当に悩んだけど、やっぱりIMGにしたのもその人たちがいたからですね。最後に決めたときも、これで失敗してもそれでいいと思えたから。大きな会社で本当に仕事がもらえていない人もいるだろうし、怖かったですけどね。
―ニューヨークには、結局何年いらっしゃったんですか?
コロナのタイミングで日本に帰ってきたんですけど、7年いましたね。ただ、実は俺、27歳で一度モデルを辞めてるんですよ。
―それも知っていました。モデルに区切りをつけて、役者として…というお話を人づてに聞いていて。かなり驚きました。
そう、2年間芸能事務所に入ったんです。それで最初は半年間、俳優さんの付き人をやってたんですけど、いざ自分のターンとなったら若干、燃え尽き症候群のようになっちゃって。パワーが出ないというか。
―モデル業のようにはいかなかったんですね。
なんて言うか…役者の世界はやっぱり、モデルとはまったく違うものでした。ちょうど同じ頃にでっくん(東出昌大さん)が『桐島(、部活やめるってよ)』で演技のほうに行って、(中島)歩くんも同じころにトライして。歩くんは当時、俳優として苦労していて、それでも舞台のほうで頑張ったりしていました。彼とは仲が良かったから一緒にお茶に行ったりして話したりするんですけど、やっぱり話を聞いていると俺は演技のほうに彼らみたいな情熱を持ててなかったんですよね。これで飯を食っていくんだ!みたいな気持ちに、俺はなれなくて。それがなんでなんだろうってずっと自問自答してました。
―すごく売れていた全盛期にモデルから俳優へ転向されたのは、やっぱりモデルの年齢的な限界を考えての判断だったんですか?
まさにそうです。自分が勝手に洗脳されてたのもあって。やっぱり「メンズでモデルは長くはやれない」って、いつも耳には入ってきてたから。
―ダイスケさんは25歳のときからそう言ってましたよね。モデルとしてすごくいい時期なのに、どこか焦っているように思えて不思議でした。
でも、その芸能事務所は人数こそ少ないけど、演技を本気でやりたい人たちにとっては死ぬほど入りたいようなところだったんです。そんなところの社長さんが「一緒にやりたい」って言ってくれたんですよ。そんなチャンス、たぶんもうないじゃないですか。それで会いに行ってご飯を食べながら話を聞いたら、「モデルをやりながらとかはナシだ」って言われて。区切りをつけろ、のめり込めと。本気で目指すなら当然のことだよなと思ってそれに従ったんです。

―でも、20代の数年を費やしたモデル業に見切りをつけるのは簡単な決断じゃなかったでしょうね。
死ぬほど悩みましたよ。マジで頭がおかしくなりそうでした。朝もベッドから起き上がれなくて、これ以上考えたら
たぶんメンタルにすごい影響してしまうなと。それで27、28、29歳の半分くらいまでをそうやって過ごして。最後は
やっぱり「辞めさせてください」と社長さんに話をしました。
―そうだったんですね…。
それで俳優業を辞めて、芸能事務所の社長さんからドンナの社長の(島崎)純子さんにも「こういう経緯で、うちか
らは辞めることになりました」っていう連絡をしてくれたみたいで、純子さんが俺に電話してきてくれたんです。俺、
そのときもう実家に帰ろうとしてたんですよ。それを伝えたら「もう一回がんばって花を咲かせるわよ!一緒に頑張
ろう、太輔」って言ってくれて。
―ダイスケさんの周りには熱い方が多いですね。
それで、俺も「ニューヨークに住んで、そこでまたワールドキャンペーンにモデルとして使われるように活躍してもう
一度花を咲かせます」と答えました。ただ、そのときに俺自身もなんでかわからないけど、「3ヶ月だけ時間をもらえま
すか」って伝えて、デイケアの施設で3ヶ月間、バイトをしたんですよ。
―え!? なぜ!?
大学のときに精神保健福祉の国家資格を取ってたんで。そこでバイトして貯めたお金をニューヨークのフライト代とか、
最初の生活費にしたいなと思ったんです。今まで蓄えてきたお金でニューヨークに行く、とかじゃなくて。
―ご自身なりのけじめの付け方だったんですね。
それで、これもまた学大のデイケアの施設でバイトしたんです。バイト帰りの公園で、「俺…こんなことしてて、また
花咲くのかな?」とかって考えてましたね(笑)。だけど、純子さんやJさんも「絶対にもう一回復活するぞ!」
と言ってるし、俺も実家に帰ろうとしてるところを止めてくれたのが嬉しくて、枯れるほど泣いちゃったから。だから、
学大は俺にとっては本当にいろいろあった場所なんです。だけど楽しい思い出はあんまりないかもしれないですね(笑)。
ほとんど苦しいことばっかり。だけど、やっぱりそういう場所って大事じゃないですか。今も学大に来ると、そんなこと
を思い出します。
―再渡米のときは、もうアジア人のメンズモデルの年齢制限みたいな呪縛からはもう脱却できてたんですか?
そのときにはもうなかったですね。そうやってドンナの人たちが応援してくれてるのに、そんなことは気にしてられな
いじゃないですか。もう限界の限界まで、どこまで行けるかトライしてやれって吹っ切れてたんで。だから強かったと
思います。
―でも、20代の数年を費やしたモデル業に見切りをつけるのは簡単な決断じゃなかったでしょうね。
死ぬほど悩みましたよ。マジで頭がおかしくなりそうでした。朝もベッドから起き上がれなくて、これ以上考えたらたぶんメンタルにすごい影響してしまうなと。それで27、28、29歳の半分くらいまでをそうやって過ごして。最後はやっぱり「辞めさせてください」と社長さんに話をしました。
―そうだったんですね…。
それで俳優業を辞めて、芸能事務所の社長さんからドンナの社長の(島崎)純子さんにも「こういう経緯で、うちからは辞めることになりました」っていう連絡をしてくれたみたいで、純子さんが俺に電話してきてくれたんです。俺、そのときもう実家に帰ろうとしてたんですよ。それを伝えたら「もう一回がんばって花を咲かせるわよ!一緒に頑張ろう、太輔」って言ってくれて。
―ダイスケさんの周りには熱い方が多いですね。
それで、俺も「ニューヨークに住んで、そこでまたワールドキャンペーンにモデルとして使われるように活躍してもう一度花を咲かせます」と答えました。ただ、そのときに俺自身もなんでかわからないけど、「3ヶ月だけ時間をもらえますか」って伝えて、デイケアの施設で3ヶ月間、バイトをしたんですよ。
―え!? なぜ!?
大学のときに精神保健福祉の国家資格を取ってたんで。そこでバイトして貯めたお金をニューヨークのフライト代とか、最初の生活費にしたいなと思ったんです。今まで蓄えてきたお金でニューヨークに行く、とかじゃなくて。
―ご自身なりのけじめの付け方だったんですね。
それで、これもまた学大のデイケアの施設でバイトしたんです。バイト帰りの公園で、「俺…こんなことしてて、また花咲くのかな?」とかって考えてましたね(笑)。だけど、純子さんやJさんも「絶対にもう一回復活するぞ!」と言ってるし、俺も実家に帰ろうとしてるところを止めてくれたのが嬉しくて、枯れるほど泣いちゃったから。だから、学大は俺にとっては本当にいろいろあった場所なんです。だけど楽しい思い出はあんまりないかもしれないですね(笑)。ほとんど苦しいことばっかり。だけど、やっぱりそういう場所って大事じゃないですか。今も学大に来ると、そんなことを思い出します。
―再渡米のときは、もうアジア人のメンズモデルの年齢制限みたいな呪縛からはもう脱却できてたんですか?
そのときにはもうなかったですね。そうやってドンナの人たちが応援してくれてるのに、そんなことは気にしてられないじゃないですか。もう限界の限界まで、どこまで行けるかトライしてやれって吹っ切れてたんで。だから強かったと思います。
“「この服素敵だな」って感動できるって
幸せじゃないですか”
“「この服素敵だな」って感動できるって幸せじゃないですか”
田邊:今ケータイを見返してたらダイスケとニューヨークでご飯に行ったときの写真が残ってたよ。
これが2016年だね。
2014年から住んでたから、2年経ってもう元気を取り戻してるころですね。この剛さんの写真で俺がエイチ・アンド
・エムのキャンペーンをやってるっていうことは。
―そうやって年齢制限が幻だったっていうことを実際に証明できたわけですもんね。
2014年にもう一回ニューヨークに行ったばかりのころはデイケアで貯めたお金もすぐになくなって、「アメリカでも
またバイトしなくちゃいけないのか…!?」と思ってましたよ。それでも一回ちゃんとした仕事が来て、まとまっ
たお金をもらえてジムとかも契約できて。それで2015年になるくらいには大きいキャンペーンとかも来るようにな
りましたね。ザラのワールドキャンペーン(2014年秋冬)が最初だったのかな。アメリカにまた戻ってから、そう
いうキャンペーンのジャンルが少し変わったなとは思いました。ハイファッションから、そういうものが増えて。
―ラグジュアリーでもファストファッションでもモデルとして貴賎はないなという感覚だったんですか?
いや、でもそのザラのキャンペーンはブー・ジョージっていうジョルジオ・アルマーニのワールドキャンペーンも
撮ったりしてるようなフォトグラファーさんがやってたんです。ブランドどうこうよりも、リクエストをもらった
ときにその名前があってそこになびいた感じでした。
―クリエイションのレベルが保証されていますもんね。
やっぱりクライアントさん…ブランド以上に誰がつくってるのかは相当気にしてます。マネージャーさんにも「ど
ういう人たちがつくってるのかは、必ず聞いてもらっていいですか?」って。
―きっとそれもダイスケさんが実際に経験されて重要視されるようになった部分ですよね。モデルという
仕事は有名ですし魅力的ですけど、そういう実際の動きを知らない人は多いんじゃないでしょうか。昨今の
パリコレ詐欺みたいなものが出てきたのも、結局そこにつけ込んだものでしょうし。
ありますよね。正直、それにはめちゃくちゃ腹が立ってます。田舎の子とかを上京させて、お金を払わせて宣材写
真を撮って、若い子たちに高額を請求してよくわからないレッスンを受けさせて、ファッションウィーク中にオー
ディションに呼ばれるかどうかもわからない事務所に所属させて、ファッションウィーク中のスケジュールに入っ
ていないブランドのショーに出させるとか。それに騙されてしまっている人がきっとたくさんいると思うし、そう
やって人の夢を食い物にしてる人たちは本当に最低だと思います。ただ、そいつらが圧倒的に悪いんですけど、正
直どこかで思っちゃうんですよ。そんなやつらに騙されるなよ…! って。
―騙されてしまう人たちにも思うところがあるんですね。
はい。無知だった大学生のころの俺でも、さすがにそれはあり得ないと思ってたと思うし、そもそもお金を払って
出られるような甘い世界じゃないじゃないですか。もっと想像してくれよって、どうしても思っちゃうんです。
じゃあ本当のパリで、たとえばドリス ヴァン ノッテンがランウェイを歩くモデルからお金を取ってると思うの?逆
だよ! って。彼らは少なくないお金をエージェンシーに払って、それのために世界中からモデルはみんな集まって、
オーディションの会場を必死に回って、切磋琢磨しながらたったひとつのルックの枠を勝ち取ろうとしてるんですよ。
―モデルという仕事を深く知らないまま、華やかさやステータスだけを欲しがる人は
きっと騙されてしまいやすいでしょうね…。
今はエージェンシーも増えてるし、フリーでやってる人も多いから、きっとインフルエンサーやマルチに仕事をこな
している人たちとの境界線も曖昧になって、そういう状況が生まれやすいのかもしれませんね。でも、スマホもSNS
もなくて調べにくい時代に、俺はラーズさんがいる事務所できっと海外にもつながるはずだと思ってドンナに履歴書
を送ったし、彼らがいたから俺のモデルとしてのキャリアはここまで行けたんです。海外にトライしたい人が最初か
ら事務所なし…フリーで挑戦っていうのは、相当厳しいんじゃないかと思いますよ。
田邊:今ケータイを見返してたらダイスケとニューヨークでご飯に行ったときの写真が残ってたよ。これが2016年だね。
2014年から住んでたから、2年経ってもう元気を取り戻してるころですね。この剛さんの写真で俺がエイチ・アンド・エムのキャンペーンをやってるっていうことは。
―そうやって年齢制限が幻だったっていうことを実際に証明できたわけですもんね。
2014年にもう一回ニューヨークに行ったばかりのころはデイケアで貯めたお金もすぐになくなって、「アメリカでもまたバイトしなくちゃいけないのか…!?」と思ってましたよ。それでも一回ちゃんとした仕事が来て、まとまったお金をもらえてジムとかも契約できて。それで2015年になるくらいには大きいキャンペーンとかも来るようになりましたね。ザラのワールドキャンペーン(2014年秋冬)が最初だったのかな。アメリカにまた戻ってから、そういうキャンペーンのジャンルが少し変わったなとは思いました。ハイファッションから、そういうものが増えて。
―ラグジュアリーでもファストファッションでもモデルとして貴賎はないなという感覚だったんですか?
いや、でもそのザラのキャンペーンはブー・ジョージっていうジョルジオ・アルマーニのワールドキャンペーンも撮ったりしてるようなフォトグラファーさんがやってたんです。ブランドどうこうよりも、リクエストをもらったときにその名前があってそこになびいた感じでした。
―クリエイションのレベルが保証されていますもんね。
やっぱりクライアントさん…ブランド以上に誰がつくってるのかは相当気にしてます。マネージャーさんにも「どういう人たちがつくってるのかは、必ず聞いてもらっていいですか?」って。
―きっとそれもダイスケさんが実際に経験されて重要視されるようになった部分ですよね。モデルという仕事は有名ですし魅力的ですけど、そういう実際の動きを知らない人は多いんじゃないでしょうか。昨今のパリコレ詐欺みたいなものが出てきたのも、結局そこにつけ込んだものでしょうし。
ありますよね。正直、それにはめちゃくちゃ腹が立ってます。田舎の子とかを上京させて、お金を払わせて宣材写真を撮って、若い子たちに高額を請求してよくわからないレッスンを受けさせて、ファッションウィーク中にオーディションに呼ばれるかどうかもわからない事務所に所属させて、ファッションウィーク中のスケジュールに入っていないブランドのショーに出させるとか。それに騙されてしまっている人がきっとたくさんいると思うし、そうやって人の夢を食い物にしてる人たちは本当に最低だと思います。ただ、そいつらが圧倒的に悪いんですけど、正直どこかで思っちゃうんですよ。そんなやつらに騙されるなよ…! って。
―騙されてしまう人たちにも思うところがあるんですね。
はい。無知だった大学生のころの俺でも、さすがにそれはあり得ないと思ってたと思うし、そもそもお金を払って出られるような甘い世界じゃないじゃないですか。もっと想像してくれよって、どうしても思っちゃうんです。じゃあ本当のパリで、たとえばドリス ヴァン ノッテンがランウェイを歩くモデルからお金を取ってると思うの?逆だよ! って。彼らは少なくないお金をエージェンシーに払って、それのために世界中からモデルはみんな集まって、オーディションの会場を必死に回って、切磋琢磨しながらたったひとつのルックの枠を勝ち取ろうとしてるんですよ。
―モデルという仕事を深く知らないまま、華やかさやステータスだけを欲しがる人はきっと騙されてしまいやすいでしょうね…。
今はエージェンシーも増えてるし、フリーでやってる人も多いから、きっとインフルエンサーやマルチに仕事をこなしている人たちとの境界線も曖昧になって、そういう状況が生まれやすいのかもしれませんね。でも、スマホもSNSもなくて調べにくい時代に、俺はラーズさんがいる事務所できっと海外にもつながるはずだと思ってドンナに履歴書を送ったし、彼らがいたから俺のモデルとしてのキャリアはここまで行けたんです。海外にトライしたい人が最初から事務所なし…フリーで挑戦っていうのは、相当厳しいんじゃないかと思いますよ。

―そもそもパリファッションウィークのスケジュールに正式にリストアップされていないブランドの発表は、
同じ時期にパリでショーをやってもパリコレではないですもんね。
そうですよね。俺、思い返してみるとパリコレに出たい、ミラノコレクションに出たいと思ったこと、ほとんど
ない気がします。それよりもドリス ヴァン ノッテンのショーに出たい、プラダのショーに出たいとか、そう思っ
てパリやミラノに行ってたから。
―後進や若手のモデルさんにも、ダイスケさんの言葉が届くといいなと思います。年齢のお話も
そうですけど、ダイスケさんはモデルとして前例のなかったことを世の中にすごく示してきている
よなぁとつくづく思うので。
そうですね。ここから、俺は示していかないといけないと思ってます。今からモデルをやりたいっていう人たち
に、こんな年齢までやれてる人がいるんだっていうのを。今はあんまりハイファッションっていう言葉もなくな
ってきましたけど、この年齢でもそういうクライアントさんから声がかかってて、若いころだけじゃなく、年を
取ってもハイファッションな洋服を着て撮影してることや、普段から着ることを楽しんでるなって思って
もらいたいです。
―それはモデルだけじゃなく、ファッションが好きなすべての人たちに希望を与えてくれそうですね。
一番は“あの人楽しんでるよな”って思って欲しいんです。“あの人めっちゃ努力してて、苦労してそうだよね”よ
りも。やっぱりこの仕事が好きだし、好きって一番強いですよね。俺はあんまり苦しいところとか、苦労してる
ところは人に見せない性格で。そりゃあ大変ですよ。食べ物も節制して、トレーニングも1日2部練くらいしない
ともう保たない状態になってきてるんで。それでも、やっぱりファッションモデルが撮影やショーで洋服を着る
のなら、完璧な体の人が着てこそ似合うものだと昔から思ってるし、そのためにトレーニングをしたりお酒を我
慢したり、暴飲暴食を控えたりって、俺はアリだと思ってます。こう言うとダイエットを強要してるのか!と思
われてしまうかもしれないけど、それを誰かに押し付けてるわけじゃなくて、あくまで俺自体の考えはこうって
だけなんです。“あの格好いい洋服を着こなしたいからトレーニングをする、節制する”って、俺はアリだと思う
んですよね。
―体型でも個性でも多様性の尊重は大事ですけど、そうやってこだわって体までつくり込んだ人が服を
着た姿はやっぱり美しいなと思います。
新しく所属させていただくことになったニューヨークの事務所のジャグモデルズも、元々はプラスサイズモデル
さんだけをやってたエージェンシーなんです。それが、これからハイファッションもやっていこうとなって。一
時期はキャンペーンでもプラスサイズのモデルが積極的に組み込まれるようになってましたけど、最近はあまり
見かけなくなってきている気がするし、ファッションがまたここから変化していくのかなって。彼らもきっと、
そう気づいているんだと思います。
―プラスサイズモデルの需要が増えたのはモードの世界の過度な痩身信仰が問題視されて、
社会的スタンスの表明として興ったムーブメントという側面が大きいですもんね。
はい。俺は撮影でそのブランドのそのシーズンを代表する洋服を着て、カメラの前に立って撮られるっていうの
がすごく楽しいし、本当に好きなんですよ。「この服、めっちゃ格好いい!」、「これは似合うな」、「この服
はタイトだな」とか。そういうことを全部、自分の体を物差しにして感じられるのがすごく好きなんです。
体重が増えてしまって洋服がタイトになりすぎたときなんかはやっぱりなんとも言えない気分になりますけど、プ
ラスサイズモデルさんだったり痩身信仰だったりについては、これからもファッション業界ではしっかり考えて
いく必要があると思ってます。俺自身も考えていかないといけないなって。
―ダイスケさんご自身が服やファッションが好きであることは、やっぱりモデルとしても
アドバンテージになっていますか?
それは意外に難しいところで、興味がまったくない人が好かれる現場もたくさん見てるし、そういう人が素敵な
服を着せられて、俺自身も「うわ!いいな」と感じることもたくさんあるんです。だから服が好きなほうがいい
とは一概には言えないけど、俺自身は服が好きで得をしてると思ってます。撮影中に「この服素敵だな」って感
動できてるのって、単純に幸せじゃないですか。だから、俺はありがたいなと思ってます。自分が撮影中、楽し
い時間を過ごしてるんで。ただ、それがモデルとして活かされてるかはわからないですね(笑)。
―最後に、もし今後の展望があったら聞かせてもらえますか。
これは純子さんにはずっと言ってるんですけど、ゆくゆくは自分がメンズディビジョンのエージェントとしてこ
れからモデルとして夢を追いかけたい人たちをサポートしていけたらなと思ってます。キャスティングディレク
ターしかり、エージェンシーしかり、海外のファッション業界のコネクションは俺、相当持ってると思うから。
それを還元できたらなって。
―それでもまだまだプレイヤーとして動いているダイスケさんを見ていると、しばらくその日は
訪れないんだろうという気持ちになりますね。
そうですね。今、日本だけじゃなく海外の事務所のエージェントからも仕事のオファーをいただけていて、自分の
マネージメントをしてくださってる世界中の人たちが仕事のブッキングをがんばってくれてるんだから、俺自身も
がんばってさらに成長しないと。昔の俺は「いつ終わりが来るかわからない」って、ビビって逃げ越しでやってと
きがあったから、余計にそう感じます。一回経験したんだから、もうそれじゃダメだよなって。だから将来だとか
そんなことよりも、俺は今に全力でいたいんです。
―そもそもパリファッションウィークのスケジュールに正式にリストアップされていないブランドの発表は、同じ時期にパリでショーをやってもパリコレではないですもんね。
そうですよね。俺、思い返してみるとパリコレに出たい、ミラノコレクションに出たいと思ったこと、ほとんどない気がします。それよりもドリス ヴァン ノッテンのショーに出たい、プラダのショーに出たいとか、そう思ってパリやミラノに行ってたから。
―後進や若手のモデルさんにも、ダイスケさんの言葉が届くといいなと思います。年齢のお話もそうですけど、ダイスケさんはモデルとして前例のなかったことを世の中にすごく示してきているよなぁとつくづく思うので。
そうですね。ここから、俺は示していかないといけないと思ってます。今からモデルをやりたいっていう人たちに、こんな年齢までやれてる人がいるんだっていうのを。今はあんまりハイファッションっていう言葉もなくなってきましたけど、この年齢でもそういうクライアントさんから声がかかってて、若いころだけじゃなく、年を取ってもハイファッションな洋服を着て撮影してることや、普段から着ることを楽しんでるなって思ってもらいたいです。
―それはモデルだけじゃなく、ファッションが好きなすべての人たちに希望を与えてくれそうですね。
一番は“あの人楽しんでるよな”って思って欲しいんです。“あの人めっちゃ努力してて、苦労してそうだよね”よりも。やっぱりこの仕事が好きだし、好きって一番強いですよね。俺はあんまり苦しいところとか、苦労してるところは人に見せない性格で。そりゃあ大変ですよ。食べ物も節制して、トレーニングも1日2部練くらいしないともう保たない状態になってきてるんで。それでも、やっぱりファッションモデルが撮影やショーで洋服を着るのなら、完璧な体の人が着てこそ似合うものだと昔から思ってるし、そのためにトレーニングをしたりお酒を我慢したり、暴飲暴食を控えたりって、俺はアリだと思ってます。こう言うとダイエットを強要してるのか!と思われてしまうかもしれないけど、それを誰かに押し付けてるわけじゃなくて、あくまで俺自体の考えはこうってだけなんです。“あの格好いい洋服を着こなしたいからトレーニングをする、節制する”って、俺はアリだと思うんですよね。
―体型でも個性でも多様性の尊重は大事ですけど、そうやってこだわって体までつくり込んだ人が服を着た姿はやっぱり美しいなと思います。
新しく所属させていただくことになったニューヨークの事務所のジャグモデルズも、元々はプラスサイズモデルさんだけをやってたエージェンシーなんです。それが、これからハイファッションもやっていこうとなって。一時期はキャンペーンでもプラスサイズのモデルが積極的に組み込まれるようになってましたけど、最近はあまり見かけなくなってきている気がするし、ファッションがまたここから変化していくのかなって。彼らもきっと、そう気づいているんだと思います。
―プラスサイズモデルの需要が増えたのはモードの世界の過度な痩身信仰が問題視されて、社会的スタンスの表明として興ったムーブメントという側面が大きいですもんね。
はい。俺は撮影でそのブランドのそのシーズンを代表する洋服を着て、カメラの前に立って撮られるっていうのがすごく楽しいし、本当に好きなんですよ。「この服、めっちゃ格好いい!」、「これは似合うな」、「この服はタイトだな」とか。そういうことを全部、自分の体を物差しにして感じられるのがすごく好きなんです。体重が増えてしまって洋服がタイトになりすぎたときなんかはやっぱりなんとも言えない気分になりますけど、プラスサイズモデルさんだったり痩身信仰だったりについては、これからもファッション業界ではしっかり考えていく必要があると思ってます。俺自身も考えていかないといけないなって。
―ダイスケさんご自身が服やファッションが好きであることは、やっぱりモデルとしてもアドバンテージになっていますか?
それは意外に難しいところで、興味がまったくない人が好かれる現場もたくさん見てるし、そういう人が素敵な服を着せられて、俺自身も「うわ!いいな」と感じることもたくさんあるんです。だから服が好きなほうがいいとは一概には言えないけど、俺自身は服が好きで得をしてると思ってます。撮影中に「この服素敵だな」って感動できてるのって、単純に幸せじゃないですか。だから、俺はありがたいなと思ってます。自分が撮影中、楽しい時間を過ごしてるんで。ただ、それがモデルとして活かされてるかはわからないですね(笑)。
―最後に、もし今後の展望があったら聞かせてもらえますか。
これは純子さんにはずっと言ってるんですけど、ゆくゆくは自分がメンズディビジョンのエージェントとしてこれからモデルとして夢を追いかけたい人たちをサポートしていけたらなと思ってます。キャスティングディレクターしかり、エージェンシーしかり、海外のファッション業界のコネクションは俺、相当持ってると思うから。それを還元できたらなって。
―それでもまだまだプレイヤーとして動いているダイスケさんを見ていると、しばらくその日は訪れないんだろうという気持ちになりますね。
そうですね。今、日本だけじゃなく海外の事務所のエージェントからも仕事のオファーをいただけていて、自分のマネージメントをしてくださってる世界中の人たちが仕事のブッキングをがんばってくれてるんだから、俺自身もがんばってさらに成長しないと。昔の俺は「いつ終わりが来るかわからない」って、ビビって逃げ越しでやってときがあったから、余計にそう感じます。一回経験したんだから、もうそれじゃダメだよなって。だから将来だとかそんなことよりも、俺は今に全力でいたいんです。


DASIUKE|ダイスケ
モデル
1984年生まれ、福岡県出身。本名は上田太輔。大学在学中にモデルを志し、ドンナの門を叩いたのは本項
でも触れた通り。ちなみに、マネージメントのはからいでラーズ・スウェンソンとは後に邂逅を果たしている。
名だたるメゾンのランウェイやキャンペーンに起用され続け、40歳を過ぎた今も第一線で活躍している、名実
ともに日本を代表する男性ファッションモデル。趣味はサッカーで、愛車はジムニー。
Instagram: @uedaisuke
着用アイテム : RYKER/BLACK ¥89,100
DASIUKE|ダイスケ
モデル
1984年生まれ、福岡県出身。本名は上田太輔。大学在学中にモデルを志し、ドンナの門を叩いたのは本項でも触れた通り。ちなみに、マネージメントのはからいでラーズ・スウェンソンとは後に邂逅を果たしている。名だたるメゾンのランウェイやキャンペーンに起用され続け、40歳を過ぎた今も第一線で活躍している、名実ともに日本を代表する男性ファッションモデル。趣味はサッカーで、愛車はジムニー。
Instagram: @uedaisuke
着用アイテム : RYKER/BLACK ¥89,100