1. Finest Fit Guide – 前田晃伸 / AKINOBU MAEDA


「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃない
けれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきり
と映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェア
がよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はアートディレクター、前田晃伸さんの場合。


Photograph_Ryohei Ambo
Text &Edit_Rui Konno

「服が似合う人」は、何が他と違うんだろうか。シルエット? 色合わせ? それとも素材感?どれもきっと間違いじゃないけれど、決定的なのは多分、また別の部分。ジョン スメドレーのニットはシンプルで寡黙な分、着る人の個性がはっきりと映し出される。一見ずっと同じようでいて、少しずつ時代に合わせて変化をしてきたジョン スメドレーのニットウェアがよく似合う人たちの肖像と、その理由。今回はアートディレクター、前田晃伸さんの場合。

Photograph_Ryohei Ambo
Text &Edit_Rui Konno


“デザイン自体で人生を肯定するような
メッセージを発信できるかも、と思った。”

“デザイン自体で人生を
肯定するようなメッセージを
発信できるかも、と思った。”


―知らない方のために、改めて前田さんの遍歴について教えていただけますか。

はい。もともとはイルドーザーっていうデザインチームに所属していて、それが’99年ぐらいの話です。僕は出身が愛知県
なんですけど、地元の大学の先輩で井口弘史さんというアーティストの方がいて、当時はよく井口さんに助けてもらって
たんです。それで井口さんがデザイン事務所で働いてるのを見ていて、なるほど!そういう働き方があるのか!じゃあ自
分もやるか、みたいな(笑)。すごく安直な形でデザインの道を選びました。

―理由は人それぞれですもんね(笑)。

その井口さんがいたのがきっかけでイルドーザーの人たちとも知り合いました。ジョン スメドレーはその前にはもう着て
ましたね。今思うと。

―そんなに若い頃から着てくださっていたんですね。

そうですね。で、そこから流れで僕も参加させてもらうことになって、解散したのが2003年かな。そこからはずっとフリ
ーランスでデザインをやっていて。9年くらいそれを続けて、今のデザイン事務所になりました。

―事務所を構えられたのは何か転機があったんですか?

雑誌の『ポパイ』をやることになって、それで会社化するか…って感じでしたね。

―知らない方のために、改めて前田さんの遍歴について教えていただけますか。

はい。もともとはイルドーザーっていうデザインチームに所属していて、それが’99年ぐらいの話です。僕は出身が愛知県なんですけど、地元の大学の先輩で井口弘史さんというアーティストの方がいて、当時はよく井口さんに助けてもらってたんです。それで井口さんがデザイン事務所で働いてるのを見ていて、なるほど!そういう働き方があるのか!じゃあ自分もやるか、みたいな(笑)。すごく安直な形でデザインの道を選びました。

―理由は人それぞれですもんね(笑)。

その井口さんがいたのがきっかけでイルドーザーの人たちとも知り合いました。ジョン スメドレーはその前にはもう着てましたね。今思うと。

―そんなに若い頃から着てくださっていたんですね。

そうですね。で、そこから流れで僕も参加させてもらうことになって、解散したのが2003年かな。そこからはずっとフリーランスでデザインをやっていて。9年くらいそれを続けて、今のデザイン事務所になりました。

―事務所を構えられたのは何か転機があったんですか?

雑誌の『ポパイ』をやることになって、それで会社化するか…って感じでしたね。





―前田さんのことを“『ポパイ』の元アートディレクター”として認識している人たちは多いと思いますけど、それまでの
経歴を思えば、かなり意外な起用に見えますよね。


そうなんですよ。だから、本当によく受け入れてくれたなと。「懐広いね!」って(笑)。もともとは山本康一郎さんの
紹介で、(リニューアル時の編集長を務めた)木下(孝浩)さんとはずいぶん前に会ってたんです。これは後から知った
んですけど、木下さんだけが僕を推してくれてたみたいで。長谷(川 昭雄)君とか、前に仕事をしたことある人たちに
後で 聞いたら、「前田くんはないよね」っていう空気だったみたい。今はどうかわからないけど、当時はどこの馬の骨か
もわからないようなデザイナーがADをやること自体が異例だったんですよ。そういう意味でもそんなにウェルカムじゃ
なかったですよね。

―今では明確なシティボーイ像がありますけど、最初はどんな風にイメージしていったんですか?

当時ずっと考えてたのは、なるべくオシャレな事をしないっていうことと、東京らしさを出すこと。要はアジアの片隅に
ある街、みたいな部分ですね。それを形にして行こうと思っていたから変な書体を使ったり、手書きもダサい感じでやっ
たり。

―“シティ”だから東京っぽくというのはわかるんですが、オシャレにしないというのはどういう理由で?

基本的には悪ふざけで、普通のことがしたくなかったんです。それはシティボーイ像というよりは僕の個人的な思いです
けどね。あと、これは理想論なんですが、デザイン自体でポップミュージックみたいに人生を肯定するようなメッセージを
発信できるかも、と個人的に思ったんです。『ポパイ』という媒体だからこそ実現できそうだなと。僕だけじゃなく、スタッ
フと一緒に何ができるのかって悩みました。ただオシャレなだけじゃ多分届かないよな、どうやったら届くのかな、って。

―どちらかというとそれまでの前田さんのデザインワークは大衆というよりは特定のコミュニティに向けたものが多かった
印象なんですが、『ポパイ』はより多くの人に開かれたものでしたよね。


そうなんですよ。だから『ポパイ』をやって自分が変わったのかとも思ったんですけど、そうじゃなくて世の中が変わっ
たんだと思います。多分、大衆的なものにみんなが飽きてきたんじゃないですか?より個人的な声とか、口コミみたいな
情報の方がいいっていう風に。SNSが広まる前ではありましたけど、そういう流れがもうすでにあったんじゃないですかね。

―最大多数に向けて平均化されるんじゃなく、一個人の視点がそのまま広まっていく感じということですね。

大げさに言えば『スター・ウォーズ』と一緒で、超個人的な逸話がベースにあるんだけど、最終的なアウトプットはスペ
クタクルにするみたいな。そういうところがあったかもしれない。『スター・ウォーズ』も結局はジョージ・ルーカスの
個人的な話で、自分がお父さんといざこざがあって、その経験を壮大なスケールで見せてるだけだと思うから。『ポパイ』
もそれがたまたま時代に合ったのかもしれないです。上手くハマったというか。

―手探りの誌面づくりは相当な労力だったと思いますけど、実際にはそんな大変さを感じないくらいポジティブな誌面で
したよね。明るいことやポップなことをやろうという意識が元々あったんですか?


そこはそうですね。単純に僕の好みなのかもしれないです。基本的には明るいものの方が好き。だから、日本人のカメラ
マンには叙情的な写真を撮る人が多くて、それがすごい嫌で。それが日本っぽくて、評価されやすいのもわかるんです
けど。

―少し湿っぽいエモーショナルさみたいなものは伝わりやすいですもんね。

うん。好きな作品もたくさんありますけどね。でも、もっと明るくて楽しくても良くない? みたいな気持ちがあったん
です。それで、照明がバチバチに当たった商業写真でもなくて、ってなったときに白川(青史)くんの写真とかはめちゃ
くちゃ良かった。よりポジティブなアウトプットがいいなってのはずっと思ってました。2012年くらいって震災の爪痕が
まだ普通に残っていて、放射能の問題とかも自分に降りかかるようなことも結構あって、みんな生活を見直してたタイミ
ングでもあったんです。そのタイミングで『ポパイ』の話があったから、そこで何をするのかとなったときに、やっぱり
ポジティブなメッセージが絶対必要だよなっていうのが自分の中にはありました。あえて言葉には出してないですけどね。

―前田さんのことを“『ポパイ』の元アートディレクター”として認識している人たちは多いと思いますけど、それまでの 経歴を思えば、かなり意外な起用に見えますよね。

そうなんですよ。だから、本当によく受け入れてくれたなと。「懐広いね!」って(笑)。もともとは山本康一郎さんの紹介で、(リニューアル時の編集長を務めた)木下(孝浩)さんとはずいぶん前に会ってたんです。これは後から知ったんですけど、木下さんだけが僕を推してくれてたみたいで。長谷(川 昭雄)君とか、前に仕事をしたことある人たちに後で聞いたら、「前田くんはないよね」っていう空気だったみたい。今はどうかわからないけど、当時はどこの馬の骨かもわからないようなデザイナーがADをやること自体が異例だったんですよ。そういう意味でもそんなにウェルカムじゃなかったですよね。

―今では明確なシティボーイ像がありますけど、最初はどんな風にイメージしていったんですか?

当時ずっと考えてたのは、なるべくオシャレな事をしないっていうことと、東京らしさを出すこと。要はアジアの片隅にある街、みたいな部分ですね。それを形にして行こうと思っていたから変な書体を使ったり、手書きもダサい感じでやったり。

―“シティ”だから東京っぽくというのはわかるんですが、オシャレにしないというのはどういう理由で?

基本的には悪ふざけで、普通のことがしたくなかったんです。それはシティボーイ像というよりは僕の個人的な思いですけどね。あと、これは理想論なんですが、デザイン自体でポップミュージックみたいに人生を肯定するようなメッセージを発信できるかも、と個人的に思ったんです。『ポパイ』という媒体だからこそ実現できそうだなと。僕だけじゃなく、スタッフと一緒に何ができるのかって悩みました。ただオシャレなだけじゃ多分届かないよな、どうやったら届くのかな、って。

―どちらかというとそれまでの前田さんのデザインワークは大衆というよりは特定のコミュニティに向けたものが多かった印象なんですが、『ポパイ』はより多くの人に開かれたものでしたよね。

そうなんですよ。だから『ポパイ』をやって自分が変わったのかとも思ったんですけど、そうじゃなくて世の中が変わったんだと思います。多分、大衆的なものにみんなが飽きてきたんじゃないですか?より個人的な声とか、口コミみたいな情報の方がいいっていう流れに。SNSが広まる前ではありましたけど、そういう流れがもうすでにあったんじゃないですかね。

―最大多数に向けて平均化されるんじゃなく、一個人の視点がそのまま広まっていく感じということですね。

大げさに言えば『スター・ウォーズ』と一緒で、超個人的な逸話がベースにあるんだけど、最終的なアウトプットはスペクタクルにするみたいな。そういうところがあったかもしれない。『スター・ウォーズ』も結局はジョージ・ルーカスの個人的な話で、自分がお父さんといざこざがあって、その経験を壮大なスケールで見せてるだけだと思うから。『ポパイ』もそれがたまたま時代に合ったのかもしれないです。上手くハマったというか。

―手探りの誌面づくりは相当な労力だったと思いますけど、実際にはそんな大変さを感じないくらいポジティブな誌面でしたよね。明るいことやポップなことをやろうという意識が元々あったんですか?

そこはそうですね。単純に僕の好みなのかもしれないです。基本的には明るいものの方が好き。だから、日本人のカメラマンには叙情的な写真を撮る人が多くて、それがすごい嫌で。それが日本っぽくて、評価されやすいのもわかるんですけど。

―少し湿っぽいエモーショナルさみたいなものは伝わりやすいですもんね。

うん。好きな作品もたくさんありますけどね。でも、もっと明るくて楽しくても良くない? みたいな気持ちがあったんです。それで、照明がバチバチに当たった商業写真でもなくて、ってなったときに白川(青史)くんの写真とかはめちゃくちゃ良かった。よりポジティブなアウトプットがいいなってのはずっと思ってました。2012年くらいって震災の爪痕がまだ普通に残っていて、放射能の問題とかも自分に降りかかるようなことも結構あって、みんな生活を見直してたタイミングでもあったんです。そのタイミングで『ポパイ』の話があったから、そこで何をするのかとなったときに、やっぱりポジティブなメッセージが絶対必要だよなっていうのが自分の中にはありました。あえて言葉には出してないですけどね。





“(イルドーザーは)多分、みんな大人じゃなかったんですよ。”

“(イルドーザーは)
多分、みんな大人じゃ
なかったんですよ。”



―東京らしさに重きを置いた理由は?

リアリティじゃないですかね。技術的、テイスト的な部分で入れたいっていうのももちろんあったけど、欧米の人に認め
られたい気持ちが自分の中にあるんですよね。そうなったときに、欧米的な価値観で何かをやったとしても勝てないんで
すよ。欧米の人たちから見たら「あぁ、知ってる。俺らの真似だよね」っていうことになるから。そこで自分たちのオリ
ジナリティって何なのかってなったときに、日本語とかの言語じゃなくてビジュアルコミュニケーションとして何ができ
るのかなと考えました。結果的に外国の書店にも置かれて、海外の人たちが「いいよね」と言ってくれたときは上手くい
ったんだなと感じたし、嬉しかったですね。

―単に海外っぽいよりも、そっちの方が本当の意味でグローバルな気がします。

自分の記憶の中にあった初期の『ポパイ』のデザインも混沌としてたんで、だったらそれでいいじゃんって。雑誌を立ち
上げたオリジネイターの意向を汲むというか、そういう気持ちはありましたね。

―そういうある種のローカリズムを肯定できたのは、前田さんご自身が街で生きている格好いい人たちに触れてきたから
なのかなと思うんですが、あるいはそれがイルドーザーの皆さんだったりするんでしょうか?


そうですね。イルドーザーに関わる人たちだったり、ラッパーの人たちだったりとかもそうですし。それが一番大事とい
うか、イルドーザーには街のプロップスこそが重要っていうような謎の掟があって。納期よりもプロップス重視でした
(笑)。その影響はやっぱりずっと引きずってますよね。

ー前田さんご自身にも元々そういう感覚があったんですか?

やっぱりそういう人にしか興味が無かったです。十代の頃は山塚アイとかに憧れてたんで、メディアにつくられた
商業的なものより街のヒーローの方が良かったですよね。

―当時はマス対コアみたいな図式が色濃かったから、余計に対称的だったんでしょうね。

そうですね。そこが今は液状化というか、水と油みたいに混じらないけど分かれるわけでもなく、ぐにょぐにょした感じ
になってるのはおもしろいなと思ってます。マイナーなようでメジャーみたいな、何だかわからないっていう状況が。個
人的には良い時代になったというか。

―でも、イルドーザーは作風も活動もかなり自由で型にはまらないというイメージが当時からありました。

阿部(周平)さんも石黒(景太)さんも早熟で十代の早い段階から世に解き放たれた獣みたいな人たちなんですよ。だか
ら、その時点ですでにちょっと他と感覚が違うんですよね。ただの街の不良みたいなもので、そこに集まるのももちろん
そういう人たち。僕としてはそっちの方がリアリティを感じられたんですよね。当時、よくみんなDJをしてて、事務所に
もDJブースがあったんです。いつも音楽が流れていて、疲れたりすると気分転換にそこでDJしたりするんですけど、締め
切りが来てもずっとDJしてるんです。もうバイク便来ますけど…みたいな。そんなこともしょっちゅうでした。

―カオスですね。それでもお願いしたくなる魅力があったんでしょうね。

そうだと信じたいですけどね。多分、みんな大人じゃなかったんですよ。僕も含めて。多分、世の中を知らなかったんだ
と思います。イルドーザー時代は全部の仕事がフライヤー感覚だったんじゃないかな。楽しかったですけど。

―東京らしさに重きを置いた理由は?

リアリティじゃないですかね。技術的、テイスト的な部分で入れたいっていうのももちろんあったけど、欧米の人に認められたい気持ちが自分の中にあるんですよね。そうなったときに、欧米的な価値観で何かをやったとしても勝てないんですよ。欧米の人たちから見たら「あぁ、知ってる。俺らの真似だよね」っていうことになるから。そこで自分たちのオリジナリティって何なのかってなったときに、日本語とかの言語じゃなくてビジュアルコミュニケーションとして何ができるのかなと考えました。結果的に外国の書店にも置かれて、海外の人たちが「いいよね」と言ってくれたときは上手くいったんだなと感じたし、嬉しかったですね。

―単に海外っぽいよりも、そっちの方が本当の意味でグローバルな気がします。

自分の記憶の中にあった初期の『ポパイ』のデザインも混沌としてたんで、だったらそれでいいじゃんって。雑誌を立ち上げたオリジネイターの意向を汲むというか、そういう気持ちはありましたね。

―そういうある種のローカリズムを肯定できたのは、前田さんご自身が街で生きている格好いい人たちに触れてきたからなのかなと思うんですが、あるいはそれがイルドーザーの皆さんだったりするんでしょうか?

そうですね。イルドーザーに関わる人たちだったり、ラッパーの人たちだったりとかもそうですし。それが一番大事というか、イルドーザーには街のプロップスこそが重要っていうような謎の掟があって。納期よりもプロップス重視でした(笑)。その影響はやっぱりずっと引きずってますよね。

ー前田さんご自身にも元々そういう感覚があったんですか?

やっぱりそういう人にしか興味が無かったです。十代の頃は山塚アイとかに憧れてたんで、メディアにつくられた商業的なものより街のヒーローの方が良かったですよね。

―当時はマス対コアみたいな図式が色濃かったから、余計に対称的だったんでしょうね。

そうですね。そこが今は液状化というか、水と油みたいに混じらないけど分かれるわけでもなく、ぐにょぐにょした感じになってるのはおもしろいなと思ってます。マイナーなようでメジャーみたいな、何だかわからないっていう状況が。個人的には良い時代になったというか。

―でも、イルドーザーは作風も活動もかなり自由で型にはまらないというイメージが当時からありました。

阿部(周平)さんも石黒(景太)さんも早熟で十代の早い段階から世に解き放たれた獣みたいな人たちなんですよ。だから、その時点ですでにちょっと他と感覚が違うんですよね。ただの街の不良みたいなもので、そこに集まるのももちろんそういう人たち。僕としてはそっちの方がリアリティを感じられたんですよね。当時、よくみんなDJをしてて、事務所にもDJブースがあったんです。いつも音楽が流れていて、疲れたりすると気分転換にそこでDJしたりするんですけど、締め切りが来てもずっとDJしてるんです。もうバイク便来ますけど…みたいな。そんなこともしょっちゅうでした。

―カオスですね。それでもお願いしたくなる魅力があったんでしょうね。

そうだと信じたいですけどね。多分、みんな大人じゃなかったんですよ。僕も含めて。多分、世の中を知らなかったんだと思います。イルドーザー時代は全部の仕事がフライヤー感覚だったんじゃないかな。楽しかったですけど。





“歴史があるならそれを継続してる方が良い。”

“歴史があるならそれを
継続してる方が良い。”



―お話を聞くほど、そんな時代に前田さんがもうジョン スメドレーを着ていたというのが意外に思えてきますね。

すでに藤原ヒロシさんが紹介していたりしてたから、みんな認知はしてましたよ。僕は最初はニットポロから入りました。
ポロシャツはいろいろあったけど、スメドレーは当時にはあんまり見ない上品さというか、スマートさがあったので。周
りのみんなもそこが好きで着てたと思います。

―不良や路上にいる人たちが品よくあろうとするのは都会のアティチュードという気がしますね。

今思えばそうですね。当時のタグにはブランド名以外にもモチーフが入ってて、このマークが何だかもわかんないけど格
好いいなと思ってました。でも、この前久々にカーディガンを買いに行ったらタグがすごいシンプルになっててびっくり
して。時代的にはどのブランドもシンプルになっていると思うんですけど、昔を知ってる身としてはちょっと寂しいです
(笑)。やっぱり歴史があるところはそれを押し出していけばいいんじゃないかと個人的には思いますけどね。

ーそういう背景に惹かれる感覚は昔からあったんですか?

ありましたよね。歴史だったり、そういうバックグラウンドみたいなものがないとやっぱりちょっとつまらないんです。
身に付けるものもそうだし、行くお店なんかもそういうものの方が良いですよね。

―さっきの『ポパイ』のオリジネーターの話とも通じるような気がします。

そうなんですよね。歴史があるものをより良くするっていうのは非常におもしろいし、歴史があるならそれを継続してる
方が良いと思う。それをズバッと切って、「新しいものです」っていうのはもったいないと。

―そうですね。ちなみに今日着られているニットはどんな風にして選ばれたんですか?

コロナ禍以降、青とか赤とか派手な色を着たくなっていて。このスメドレーもそういう気分で選びました。世界のいろん
なところで戦争が起きていて心苦しいなっていうときに黒い服は少し重たいというか。平和な時代は黒い服とかも楽しめ
たんですけど。だから楽しい、明るい色がいいなって。

―前田さんのお話を聞いていると、つくづく社会のいろんな部分から影響を受けて、ご自身の価値観や視点が生まれてい
るんだなと感じます。


自分の暮らしている社会に対してどうリフレクションして行くかがデザインなのかなと思ってるんで、その時々の状況と
かの影響は大きいですよね。デザインもただミニマルなだけなら今の時代はAIでそれぐらいできちゃうと思いますし、そ
の先を出していかないとなっていうところに来てる気がします。今はテーブルとかのプロダクトデザインに挑戦したり、
自分で写真を撮ったりしてるんですけど、そうやって新しいことをやりながら楽しめるうちに楽しもうかなと思ってます。

目に見えるものだけじゃなく、それを取り巻く感覚的な部分からデザインするのが前田さんの仕事なんだなというのが
すごく伝わってきました。


嬉しいですね。そこだけはぜひ、削らずに入れていただけたら(笑)。

―お話を聞くほど、そんな時代に前田さんがもうジョン スメドレーを着ていたというのが意外に思えてきますね。

すでに藤原ヒロシさんが紹介していたりしてたから、みんな認知はしてましたよ。僕は最初はニットポロから入りました。ポロシャツはいろいろあったけど、スメドレーは当時にはあんまり見ない上品さというか、スマートさがあったので。周りのみんなもそこが好きで着てたと思います。

―不良や路上にいる人たちが品よくあろうとするのは都会のアティチュードという気がしますね。

今思えばそうですね。当時のタグにはブランド名以外にもモチーフが入ってて、このマークが何だかもわかんないけど格好いいなと思ってました。でも、この前久々にカーディガンを買いに行ったらタグがすごいシンプルになっててびっくりして。時代的にはどのブランドもシンプルになっていると思うんですけど、昔を知ってる身としてはちょっと寂しいです(笑)。やっぱり歴史があるところはそれを押し出していけばいいんじゃないかと個人的には思いますけどね。

ーそういう背景に惹かれる感覚は昔からあったんですか?

ありましたよね。歴史だったり、そういうバックグラウンドみたいなものがないとやっぱりちょっとつまらないんです。身に付けるものもそうだし、行くお店なんかもそういうものの方が良いですよね。

―さっきの『ポパイ』のオリジネーターの話とも通じるような気がします。

そうなんですよね。歴史があるものをより良くするっていうのは非常におもしろいし、歴史があるならそれを継続してる方が良いと思う。それをズバッと切って、「新しいものです」っていうのはもったいないと。

―そうですね。ちなみに今日着られているニットはどんな風にして選ばれたんですか?

コロナ禍以降、青とか赤とか派手な色を着たくなっていて。このスメドレーもそういう気分で選びました。世界のいろんなところで戦争が起きていて心苦しいなっていうときに黒い服は少し重たいというか。平和な時代は黒い服とかも楽しめたんですけど。だから楽しい、明るい色がいいなって。

―前田さんのお話を聞いていると、つくづく社会のいろんな部分から影響を受けて、ご自身の価値観や視点が生まれているんだなと感じます。

自分の暮らしている社会に対してどうリフレクションして行くかがデザインなのかなと思ってるんで、その時々の状況とかの影響は大きいですよね。デザインもただミニマルなだけなら今の時代はAIでそれぐらいできちゃうと思いますし、その先を出していかないとなっていうところに来てる気がします。今はテーブルとかのプロダクトデザインに挑戦したり、自分で写真を撮ったりしてるんですけど、そうやって新しいことをやりながら楽しめるうちに楽しもうかなと思ってます。

―目に見えるものだけじゃなく、それを取り巻く感覚的な部分からデザインするのが前田さんの仕事なんだなというのがすごく伝わってきました。

嬉しいですね。そこだけはぜひ、削らずに入れていただけたら(笑)。







PROFILE
前田晃伸|まえだあきのぶ
1976年生まれ、愛知県出身。デザインユニット、イル
ドーザーに参加し、解散後はフリーランスのアートデ
ィレクター/デザイナーとして活動し、カルチャー性
の強い出版物やロゴなどのデザインを多く手がける。
2012年、雑誌『ポパイ』のリニューアル時にはアート
ディレクターとして参加し、デザイン面からその成功
を支えた。現在は『トゥーマッチマガジン』『AWWマ
ガジン』のアートディレクターも務めている。

Instagram:@akinobumaeda



PROFILE
前田晃伸|まえだあきのぶ
1976年生まれ、愛知県出身。デザインユニット、イルドーザーに参加し、解散後はフリーランスのアートデ ィレクター/デザイナーとして活動し、カルチャー性の強い出版物やロゴなどのデザインを多く手がける。 2012年、雑誌『ポパイ』のリニューアル時にはアートディレクターとして参加し、デザイン面からその成功 を支えた。現在は『トゥーマッチマガジン』『AWWマガジン』のアートディレクターも務めている。

Instagram:@akinobumaeda




line